小説家・宇野千代の2番目の夫だった藤村忠(ふじむらただす)は、1924(大正13)年に離婚した後も札幌で生活を続け、北海道拓殖銀行の常勤監査役や北海道証券金融株式会社の社長を歴任しました。
1928(昭和3)年には善浪ミツエと再婚して一男一女をもうけ、1961(昭和36)年には北海道大学から農学博士号を取得。その後は北海学園大学の教授としても活動し、1977(昭和52)年に81歳で亡くなっています。
また、長男・藤村孝が語った父の前妻・宇野千代への印象や、孫娘が宇野千代に手紙を送ったエピソードも残されています。
この記事では、神埜努氏の『宇野千代の札幌時代:女流作家の誕生』などをもとに、藤村忠の離婚後の人生と家族の証言を紹介します。
→ 藤村忠とは?宇野千代の2番目の夫
→ 宇野千代の4人の夫と同棲相手とは?
→ 宇野千代の離婚とは?なぜ4回の離婚を経験したのか?
結論|藤村忠は宇野千代との離婚後に再婚し、銀行役員・大学教授として活躍
宇野千代と離婚した後の藤村忠は、北海道拓殖銀行で昇進を重ね、金融会社の社長や大学教授を務めました。
その後の人生を時系列でまとめると、次のようになります。
| 年 | 藤村忠のその後の経歴 |
|---|---|
| 1924(大正13)年 | 宇野千代との協議離婚が成立 |
| 1928(昭和3)年 | 善浪ミツエと再婚。その後、長男・孝と長女・悌子が誕生 |
| 1947(昭和22)年 | 北海道拓殖銀行の常勤監査役に就任 |
| 1950(昭和25)年 | 北海道証券金融株式会社の社長に就任 |
| 1961(昭和36)年 | 北海道大学から農学博士号を取得 |
| 1966(昭和41)年 | 北海学園大学で研究・教育活動を開始 |
| 1977(昭和52)年 | 2月22日に81歳で死去 |
また、長男・藤村孝は、父の前妻である宇野千代に一度会ってみたいという気持ちがあったことを語っています。
さらに、藤村忠の孫娘はテレビ朝日『徹子の部屋』に出演した宇野千代を見て手紙を送り、祖父が亡くなっていることを伝えました。
藤村忠は宇野千代との離婚後、新しい家庭を築きながら、金融実務と学問の両分野で活動を続けていたのです。
→ 藤村忠とは?宇野千代の2番目の夫
→ 宇野千代の4人の夫と同棲相手とは?
→ 宇野千代の離婚とは?なぜ4回の離婚を経験したのか?
宇野千代と別居・離婚した後の藤村忠
藤村忠(ふじむらただす)は、1924(大正13)年に宇野千代と離婚した後も北海道拓殖銀行で勤務を続け、常勤監査役や北海道証券金融株式会社の社長を歴任しました。
また、1928(昭和3)年には善浪ミツエと再婚して一男一女をもうけ、札幌で新たな家庭を築いています。
銀行での仕事と並行して金融制度の歴史的研究を続け、1961(昭和36)年には北海道大学から農学博士号を取得。その後は北海学園大学で研究・教育活動にも携わりました。
→ 藤村忠とは?宇野千代の2番目の夫
→ 宇野千代の離婚 なぜ4回の離婚を経験したのか?
宇野千代との離婚後も札幌で生活を続ける
1922(大正11)年、宇野千代は小説『墓を発く』の掲載について確認するため東京へ向かい、そこで小説家・尾崎士郎と出会いました。
宇野千代は尾崎士郎と同棲生活を始め、札幌に戻ることはなく、1924(大正13)年4月に藤村忠との協議離婚が成立。
その後、藤村忠は札幌で銀行員として勤務を続けました。
忠は北海道拓殖銀行の調査・検査部門で経験を積んでいくことになります。
藤村忠の再婚相手は善浪ミツエ|子供は一男一女
宇野千代との離婚から4年後の1928(昭和3)年、藤村忠は10歳年下の善浪ミツエと再婚。
その後、夫婦の間には長男・孝(たかし)と長女・悌子(ていこ)が生まれています。
藤村忠は札幌市山鼻地区の南十六条西八丁目にあった北海道拓殖銀行の社宅でミツエとの生活を開始。
その後、札幌市内で自宅を構え、さらに1938(昭和13)年には広い土地を求めて住居を新築しました。
忠は銀行での仕事や金融制度の研究に取り組む一方、家庭では園芸などを楽しみながら生活していたといいます。
北海道拓殖銀行の調査・検査部門で昇進
かつて東京帝国大学法学部政治学科に在学していた藤村忠は、西欧金融経済制度史を専攻していました。
大学卒業後の就職先として大蔵省ではなく、北海道拓殖銀行を選んだ理由として、中津井高助の勧めもありましたが、大学での研究分野と銀行業務との関連性に興味があったことが挙げられるでしょう。
北海道拓殖銀行は、土地を担保として北海道の開拓に必要な資金を融資する特殊銀行でした。
不動産金融制度は忠が大学で学んだ金融経済制度史とも関係が深く、銀行での実務と学問的な関心を結び付けられる職場だったと考えられます。
1920(大正9)年に北海道拓殖銀行へ入行した忠は、最初に調査課へ配属されました。
調査課は国内外の経済動向や銀行の経営状況などを調べる部署であり、忠は長くこの分野の仕事に携わります。
その後、調査課長や検査部長などを歴任し、1947(昭和22)年には常勤監査役に就任。
→ 中津井高助とは?
1950年に北海道証券金融株式会社の社長に就任
1950(昭和25)年、藤村忠は北海道拓殖銀行の常勤監査役を退任し、北海道証券金融株式会社の社長に就任しました。
北海道証券金融は証券金融に関わる会社であり、忠は銀行で培った金融実務の経験を生かして経営に携わることになります。
その後も金融業界で活動を続け、1966(昭和41)年に北海道証券金融の社長を退任。
宇野千代と離婚した後の藤村忠は、単に北海道拓殖銀行に勤務し続けたのではなく、銀行の役員を経て金融会社の経営者へと進んでいたのです。
1961年に北海道大学で農学博士号を取得
藤村忠は銀行員として働く一方、東京帝国大学時代から関心を持っていた西欧の金融経済制度史について研究を続けていました。
特に取り組んだのが、土地や不動産を担保とする金融制度の歴史です。
北海道拓殖銀行が北海道の土地開発と密接に関係する金融機関だったこともあり、銀行での実務と研究テーマには深いつながりがありました。
1960(昭和35)年、藤村忠は北海道大学農学部に「各国不動産金融制度の発達に関する研究」という学位論文を提出。
翌1961(昭和36)年、北海道大学から農学博士号を授与されました。
農学博士という学位ですが、研究対象は農作物の栽培や農業技術ではなく、土地を担保とする金融制度の発達史でした。
大学卒業後も約40年間にわたって金融制度史の研究を続け、その成果が博士号の取得につながったことになります。
北海学園大学の教授となり、金融経済史を研究
藤村忠は博士号取得後も研究活動を続け、金融制度史に関する論文を発表。
主な研究業績には、次のようなものがあります。
- 『西洋諸国における銀行発達史』(1951年)
- 『西洋諸国の都市、商業及び金融機構略史』(1963年)
- 『西洋諸国における金融経済及び債務法制小史』(1963年)
また、北海道証券金融株式会社の社長を退任した1966(昭和41)年から1976(昭和51)年3月末までは、北海学園大学経済学部で講師・教授として研究と教育にも携わりました。
北海学園大学経済学会の『経済論集』にも論文を発表し、不動産金融制度や金融経済史に関する研究を続けています。
東京帝国大学で金融経済制度史を専攻し、北海道拓殖銀行で実務経験を積んだ藤村忠は、晩年には大学教授として後進の教育にも携わることになったのです。
藤村忠はいつ亡くなった?死因と晩年
藤村忠は1977(昭和52)年2月22日に死去。81歳でした。
亡くなる前年まで北海学園大学で教育・研究活動を続けており、晩年まで金融制度史の研究に取り組んでいました。
その人生は、宇野千代の2番目の夫という経歴だけでは説明できない、金融実務と学問の両方に関わるものでした。
なお確認した資料では藤村忠の死因は明らかになっていません。
藤村忠の長男・藤村孝が語る宇野千代の印象
藤村忠が善浪ミツエとの再婚後にもうけた長男・藤村孝(1938年生)は、『宇野千代の札幌時代: 女流作家の誕生』の著者である神埜努氏の取材に対し、父の前妻である宇野千代について語っています。
孝は父がかつて宇野千代と結婚していたことを知っていましたが、直接会って詳しい話を聞いたことはありませんでした。
また、父の前妻という存在を知りながらも、宇野千代との結婚生活について父に尋ねることにはためらいがあったといいます。
父の前妻・宇野千代に会ってみたい気持ちがあった
藤村孝は、父・忠と宇野千代が離婚した後に生まれた息子です。
そのため、宇野千代との結婚生活を直接知っているわけではありません。
しかし、父の前妻が著名な小説家であることは知っており、一度会ってみたいという気持ちを抱いていました。
神埜氏の取材に対して、孝は宇野千代が父の前妻であることを知っていたものの、父の過去について詳しく聞くことにはためらいがあったと振り返っています。
また、宇野千代の作品も一部の自伝的作品を除いて、あまり多くは読んでいなかったといいます。
孝にとって宇野千代は、父の過去に関わる人物でありながら、直接の交流がない存在だったのです。
藤村忠は子供に細かく干渉しない父親だった
藤村孝は、父・忠の家庭での人物像についても語っています。
忠は子供に対して日常生活の細かなことをあまり言わず、子供の自主性を尊重する父親だったようです。
一方、学問や研究に対しては厳しい姿勢を持っていました。
孝によると、忠は銀行での仕事を続けながら不動産金融制度の研究に取り組み、休日にも机に向かって論文を執筆していたといいます。
そのため、孝は父を研究熱心な人物として記憶していました。
こうした証言からは、銀行役員や大学教授としての経歴だけでは分からない、家庭での藤村忠の姿がうかがえます。
宇野千代との離婚について父の本心は分からなかった
藤村孝は、父が宇野千代との離婚をどのように受け止めていたのかについても語っています。
ただし、忠が離婚について詳しく話すことはなかったため、その本心を知ることはできませんでした。
孝は父の性格から考えて、宇野千代との離婚後は気持ちを切り替え、恨むこともなかっただろうと語っています。
藤村忠の孫娘と宇野千代の交流
『徹子の部屋』がきっかけで宇野千代に手紙を送る
藤村忠と宇野千代が離婚してから半世紀以上が過ぎた後、藤村忠の孫娘が宇野千代に手紙を送ったというエピソードが残されています。
きっかけとなったのは、テレビ朝日『徹子の部屋』に出演した宇野千代の姿を見たことでした。
藤村忠の死後も、宇野千代の存在は孫の世代にまで伝わっていたのです。
藤村忠の死を知らせた孫娘からの手紙
藤村忠の孫娘は、テレビ朝日『徹子の部屋』に出演した宇野千代を見て、祖父の前妻にあたる人物であることを知りました。
そこで、宇野千代に手紙を送ることを思い立ちます。
一度目の手紙には藤村忠が亡くなっていることを知らせる内容で、宇野千代は初めて藤村忠の死を知り、ショックを受けたそうです。
二度目の手紙では「父が病院を開業している。もし(札幌に)いらっしゃることがあれば、お立ち寄りください」という内容でした。
『宇野千代の札幌時代: 女流作家の誕生』の著者・神埜努氏によると、このとき宇野千代は孫にも忠のことが理解されていることを知り、安堵感を覚えたと説明しています。
藤村忠 その後 関連記事
藤村忠とは
藤村忠は宇野千代の母方の従兄であり、2番目の夫です。
1919(大正8)年に結婚し、京都・東京・札幌で生活を共にしました。宇野千代が小説家としてデビューしたのも、藤村忠との結婚生活中のことです。
2人の出会いから結婚、札幌での生活、1924年の離婚までを詳しく紹介しています。
→ 藤村忠とは?宇野千代の2人目の夫|小説家デビューを支えた結婚相手を解説
ブラッサム モデル一覧
朝ドラ『ブラッサム』では、金子大地さんが演じる木村保が藤村忠をモデルとした人物と考えられます。
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宇野千代とは
宇野千代(1897~1996年)は、『色ざんげ』『おはん』などの作品で知られる小説家で、朝ドラ『ブラッサム』の主人公・葉野珠(石橋静河)のモデルとなった人物です。
その生涯や小説家としての活動、家族関係などを紹介しています。
宇野千代の夫
宇野千代は生涯で4度結婚し、藤村亮一・藤村忠・尾崎士郎・北原武夫を夫としました。
また、洋画家・東郷青児とも同棲生活を送っています。
4人の夫と東郷青児との関係を時系列で紹介しています。
宇野千代の離婚
宇野千代は4度の結婚を経験しましたが、いずれも離婚しています。
藤村忠との離婚では、1922(大正11)年に出会った小説家・尾崎士郎との恋愛関係が大きな転機となりました。
宇野千代が4度の離婚に至った経緯や理由について紹介しています。
宇野千代の子供
宇野千代には実の子供がいたのか、また家族や子孫との関係はどうだったのでしょうか。
宇野千代の著作や年譜をもとに、子供に関する記録や「我が子同然」として交流した人々について紹介しています。
ブラッサム 作品紹介・あらすじ・ネタバレ 最終回
ブラッサム 作品紹介
宇野千代の生涯をモデルとした朝ドラ「ブラッサム」の作品紹介です。
ブラッサム 珠と保の離婚
朝ドラ「ブラッサム」では主人公・珠(石橋静河)と保(金子大地)は9週において離婚を経験することになります。
2人が離婚をする話は、宇野千代と藤村忠の間に起きた史実を参考にしていると考えられます。
→ ブラッサム 9週 あらすじ
→ ブラッサム 木村保(金子大地)とは?
→ ブラッサム 保の結婚
ブラッサム 札幌拓殖銀行とは?
朝ドラ『ブラッサム』に登場する札幌拓殖銀行は、1900(明治33)年に設立された北海道拓殖銀行がモデルと考えられます。
史実では、中津井高助の勧めもあって藤村忠が北海道拓殖銀行に就職し、宇野千代とともに札幌へ移住しました。
ブラッサム あらすじ
朝ドラ「ブラッサム」の最新週から1週までのあらすじを随時更新します。
ブラッサム ネタバレ 最終回まで
朝ドラ「ブラッサム」の最終回までのネタバレや結末予想を紹介します。
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
