朝ドラ「ブラッサム」の主人公・葉野珠(石橋静河)のモデルとなった宇野千代は、生涯で4回の結婚と4回の離婚を経験しました。
その4人目で最後の夫が、小説家・編集者として活躍した北原武夫(きたはらたけお)です。
北原武夫とは「スタイル」誌の創刊や復刊をともに支え、戦争や会社の倒産、多額の借金返済など、宇野千代の人生後半をともに歩んだ人物でもありました。
この記事では、北原武夫とはどのような人物だったのか、宇野千代との出会いから結婚、「スタイル」誌の成功と倒産、離婚に至るまでを史実に基づいて紹介します。
→ 宇野千代の4人の夫と同棲相手とは?
→ 宇野千代 結婚歴
→ 藤村亮一とは? 最初の夫
→ 藤村忠とは?2人目の夫
→ 尾崎士郎とは? 3人目の夫
→ 東郷青児とは? 4人目の夫
結論|北原武夫は宇野千代の最後の夫
北原武夫について簡単にまとめると次のようになります。
- 宇野千代の4人目で最後の夫
- 小説「妻」で芥川賞候補となった小説家
- 1937(昭和12)年に宇野千代と出会う
- 1939(昭和14)年4月1日に結婚
- 「スタイル」誌の編集やスタイル社の経営をともに支えた
- 「スタイル社」倒産後は宇野千代とともに膨大な額の借金を返済
- 借金完済後の1964(昭和39)年に離婚
北原武夫は、宇野千代が人生で最後に結婚した相手です。
華やかな「スタイル」誌の成功だけでなく、戦争や会社の倒産、約8,000万円にも及ぶ借金返済まで苦楽をともにしたことから、宇野千代の晩年を語るうえで欠かせない存在と言えるでしょう。
→ 宇野千代の4人の夫と同棲相手とは?
→ 宇野千代 結婚歴
→ 藤村亮一とは? 最初の夫
→ 藤村忠とは?2人目の夫
→ 尾崎士郎とは? 3人目の夫
→ 東郷青児とは? 4人目の夫
北原武夫とは
宇野千代の4人目で最後の夫
北原武夫(本名・北原健男、1907〜1973年)は、昭和時代に活躍した小説家・編集者です。
旧制の小田原中学(現在の神奈川県立小田原高等学校)時代から文学に親しみ、慶應義塾大学文学部在学中には「三田文学」を中心に評論や小説を発表しました。
1939(昭和14)年には小説「妻」が芥川賞候補となり、小説家として注目を集めます。
戦後は宇野千代とともにファッション雑誌「スタイル」の経営に携わる一方、自身の著書「告白的女性論」もベストセラーとなりました。
「ブラッサム」でも重要人物になる可能性
NHKが朝ドラ「ブラッサム」の制作を発表した際、「あらすじ」の一部をこのように紹介しています。
大正から昭和にかけて、関東大震災と戦争、結婚と離婚、倒産そして借金…と、珠は、さまざまな困難にのみ込まれながらも、作家として生きることに向き合います。
引用した文章にある「倒産そして借金」とは、葉野珠のモデルとなった宇野千代が、1939(昭和14)年ごろから北原武夫と共同経営していた「スタイル社」のことを指していると考えられます。
このことから「ブラッサム」の後半には、北原武夫をモデルとしたキャラクターが登場する可能性があるでしょう。
宇野千代と北原武夫の出会い
都新聞の取材がきっかけ
宇野千代さんが初めて北原武夫と出逢ったのは1937(昭和12)年の4月1日のこと。
当時、都新聞(現在の東京新聞)に記者として勤めていた北原武夫が、宇野千代さんに取材をしたことがきっかけでした。
このときも3回目に結婚した尾崎士郎のときと同じく、宇野千代は北原武夫に一目惚れしたようです。
さて、あれはその翌年の四月一日のことであった。当時、都新聞(いまの東京新聞の前身)の学芸部の記者であった北原武夫が、大番町の私のところへ取材に来たことがあった。始めて北原に会った私は、まず、紅顔の美少年とも言いたいその美貌に、心を惹かれた。そして、その彼が『妻』と言う高度で緊密な作品の作者であることを知るに及んで、その関心は倍加した。梶井基次郎と知ったときにもそうであったが、その人が文学的に素質がある、と言う認識が、いつでも先行するの私の癖であったからである。
宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No. 1769
「スタイル」誌が2人を結び付けた
この頃の北原武夫は、病気で妻・美保子を亡くしたばかりでした。さらに一人娘・北原ミキも腰椎カリエスを患い、闘病生活を送っていました。
そんな北原武夫に対し、宇野千代は都新聞を辞め、小説家として独立することを勧めます。
その後、宇野千代は日本初の本格的なファッション雑誌「スタイル」の創刊準備を進めており、北原武夫も編集スタッフとして参加しました。
雑誌は大きな成功を収め、仕事を通じて2人の距離は急速に縮まっていきます。
そして1939(昭和14)年4月1日、宇野千代と北原武夫は正式に結婚しました。
北原武夫との結婚生活
10歳差の結婚が話題となる
1939(昭和14)年4月1日、宇野千代と北原武夫は結婚しました。
宇野千代は42歳、北原武夫は32歳。10歳差の結婚であり、しかも結婚式の日が4月1日だったことから、
「エイプリルフールの冗談ではないか」
と受け止める人も少なくありませんでした。
しかし2人は真剣そのもの。
媒酌人は小説家・吉屋信子と洋画家・藤田嗣治が務め、帝国ホテルで盛大な披露宴が開かれています。
戦争が夫婦の生活を変えた
結婚から間もなく、日本は太平洋戦争(1941年12月~1945年8月)へと向かっていきます。
1942(昭和17)年1月、北原武夫は陸軍報道班員として徴用され、同年3月にはジャワ(現在のインドネシア)へ派遣されました。
宇野千代は「生きて行く私」で、当時の社会の空気を次のように振り返っています。
しかし、そんな私たち全文の人間を総ざらいにして、所謂、「軍国調」と言う風潮に投げ込んだのは、その年のことであった。或る日、北原が「陸軍報道班員」として徴用され、赤坂の連隊に入隊したとき、私たちはどうしたか。一どきに私たちの上に覆い被さった、この軍国調の圧力に、体ごと征服されたあの感覚には、私は覚えがあった。
宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No. 1859
北原武夫は同年12月に帰国しますが、宇野千代は派遣先さえ事前には知らされておらず、戦争によって夫婦の生活は大きく左右されることになりました。
1944(昭和19)年には戦時統制によって「スタイル社(このときの社名は文体社)」は解散。
夫妻は東京から熱海へ、さらに北原武夫の郷里である栃木県壬生町へ疎開し、終戦を迎えます。
戦後、「スタイル」誌が大成功
終戦後の1946(昭和21)年、産経新聞の社長である前田久吉から「援助したい」という申し出もあり「スタイル」誌は復刊。
有楽町の焼け跡に残ったビルの一室において復活したスタイル社では、
- 北原武夫が社長
- 宇野千代が副社長
として経営を担いました。
「スタイル」は戦中の統制でおしゃれに飢えていた人々から圧倒的な支持を受け、爆発的な人気雑誌へと成長。
出版社は大きな利益を上げ、宇野千代と北原武夫は編集者・実業家としても成功を収めたかに見えました。
「スタイル社」倒産と借金返済
しかし1950年代に入ると状況は一変します。
類似する女性ファッション雑誌が次々と創刊され、「スタイル」の部数とスタイル社の売上は次第に減少。
さらに税務調査をきっかけに1億円近い追徴課税を受け、会社経営は急速に悪化します。
熱海の別荘や東京・木挽町の自宅、栃木県壬生町にあった北原家の実家なども売却しましたが、会社を立て直すことはできません。結局、1959(昭和34)年に「スタイル社」は倒産しました。
社長だった北原武夫が個人保証していた負債は8,000万円以上。
宇野千代も作家活動を続けながら借金返済に奔走し、2人は昼夜を問わず働き続けることになります。
北原武夫との離婚
借金完済が夫婦の節目になった
長年にわたる返済生活は1964(昭和39)年、ようやく終わりを迎えます。
ところが宇野千代は「生きて行く私」の中で、その時の心境を次のように振り返っています。
やっとのことで、借金の返済が全部済んだ。やれやれ、これで、全部すんだな、という気持ちがあっただろうか。おかしなことであるが、それがあんまり長い期間のことであったので、私たちの間の、一つの習慣のようになっていたことが、今日限り、なくなって了ったのだとでも言うような、一種、気の抜けたような気持ちになったのを覚えている。
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借金の返済という共通の目標がなくなったことで、2人を結び付けていたものも終わりを迎えたのでした。
25年間の結婚生活に終止符
借金完済後、北原武夫から離婚を切り出されます。
宇野千代は特に引き止めることもなく受け入れ、1964(昭和39)年9月、4回目の離婚が成立しました。
1939年の結婚から約25年間続いた夫婦生活でした。
ただし、この25年間は宇野千代にとって単なる結婚生活ではありません。
戦争、「スタイル」誌の成功と倒産、そして莫大な借金返済までをともに乗り越えた、人生でも最も長く苦楽を分かち合った時期だったと言えるでしょう。
北原武夫の妻と子供
妻は宇野千代を含め2人
北原武夫は生涯で2度結婚しています。
最初の妻は北原美保子で、2人の間には長女・北原ミキが誕生しました。
しかし美保子は病気のため1937(昭和12)年3月に亡くなります。
その翌月、取材を通じて宇野千代と出会い、1939(昭和14)年4月1日に再婚しました。
したがって、北原武夫の妻として知られている人物は次の2人です。
- 最初の妻:美保子
- 2人目の妻:宇野千代
宇野千代との結婚生活は約25年間続き、4人の夫の中で最も長い結婚生活となりました。
娘・北原ミキとの関係
北原武夫には、最初の妻・美保子との間に長女・北原ミキがいました。
しかしミキは幼い頃から腰椎カリエスを患い、1939(昭和14)年7月、わずか幼い年齢で亡くなっています。
宇野千代は実子を持ちませんでしたが、北原武夫との結婚後はミキのことを深く気にかけていました。
北原ミキについては、下記の記事で詳しく紹介しています。
よくある質問(FAQ)
Q. 北原武夫とは誰ですか?
A. 北原武夫(本名・北原健男)は昭和時代の小説家です。
宇野千代の4人目の夫であり、「スタイル」誌の編集やスタイル社の経営にも携わりました。
Q. 北原武夫と宇野千代はいつ結婚しましたか?
A. 1939(昭和14)年4月1日に結婚しました。
宇野千代42歳、北原武夫32歳の10歳差の結婚で、大きな話題となりました。
Q. 北原武夫の妻は宇野千代ですか?
A. はい。
宇野千代は北原武夫の2人目の妻です。
最初の妻・美保子が亡くなった後、1939(昭和14)年に再婚しました。
Q. 北原武夫に子供はいましたか?
A. はい。
最初の妻・美保子との間に長女・北原ミキがいました。
ただし、ミキは1939(昭和14)年に幼くして亡くなっています。
詳しくは下記の記事をご覧ください。
Q. 北原武夫と宇野千代はなぜ離婚したのですか?
A. 「スタイル社」倒産後の借金を完済したことで、夫婦を結び付けていた共通の目標がなくなったことが大きな転機となりました。
1964(昭和39)年、北原武夫から離婚を切り出し、宇野千代も受け入れています。
Q. 北原武夫と宇野千代の結婚生活で最も有名な出来事は何ですか?
A. 戦後に「スタイル」誌を復刊して成功を収めたことと、その後「スタイル社」が倒産して約8,000万円もの借金返済を夫婦で続けたことです。
Q. 北原武夫は宇野千代より何歳年下でしたか?
A. 北原武夫は1907年生まれ、宇野千代は1897年生まれで、10歳年下です。
1939(昭和14)年の結婚当時は、宇野千代42歳、北原武夫32歳で、この年齢差も当時話題となりました。
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