シングルマザーの大関和と一ノ瀬りん
シングルマザーであった大関和
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。
大関和さんは明治時代に「トレインドナース」となり、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業の確立に多大な貢献をされました。その活躍から大関和さんは「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。
その大関和さんは1876(明治9)年、18才のときに渡辺福之進豊綱と結婚をして、2人の子供(大関六郎と大関心)を出産したのち離婚。それ以降、大関和さんは生涯にわたって誰とも結婚しませんでした。
つまり大関和さんは現代でいうところの「シングルマザー」だったのです。
「風、薫る」の一ノ瀬りんもシングルマザー
明治18(1885)年、日本で初めて看護婦の養成所が誕生したのを皮切りに、次々と養成所が生まれた。そのうちの1つに、物語の主人公・一ノ瀬りんと大家直美は運命に誘われるように入所する。不運が重なり若くしてシングルマザーになった、りん。
上記の引用文はNHKが、2025年1月24日に朝ドラ「風、薫る」の制作を発表した時に公表した、あらすじの一部です。このあらすじによると、大関和さんがモデルとなっている一ノ瀬りんも、大関和さんと同様にシングルマザーとなるようです。
大関和の再婚話と木下尚江(きのしたなおえ)
美人の誉れが高かった大関和
生涯にわたってシングルマザーであった大関和さんは、周囲の男性の目を魅きつける美人であったと言われています。
大関和さんは、桜井女学校(現在の女子学院)内に設立される看護婦養成所を卒業したのち、トレインドナースとして1888(明治21)年に帝国大学医科大学第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)の外科看病婦取締に就任。
その際には、将来を嘱望された病院の若手医師たちは、大関和さんの美貌に惹きつけられたと言われています。
なお、大関和たちの試験委員をした内科の三浦謹之助、外科の芳賀栄次郎ほか、大沢岳太郎らは、この年の一月に医科大学を卒業したばかりで、新進気鋭の医師として帝大で仕事を始めており、実習生であった大関らとは親しく交流していた。とりわけ美人の誉れ高い和は、彼らの憧れの的でもあった。しかし、徹底してキリスト教主義による看護を定着させようとする和の眼中には、彼らもまた布教の対象としてしか映らなかった。
NHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」によると、大関和さんも再婚を考えないわけではなかったようです。
しかし誰でも良いというわけではなく、再婚相手に最低限求めたことは、キリスト教の信仰について話ができることでした。
木下尚江との出会い
クリスチャンであった大関和さんにとって、再婚相手としてうってつけの人物が現れます。社会運動家の木下尚江(きのしたなおえ)(1868~1936年)という男性です。
1891(明治24)年に新潟県の高田女学校で舎監をしていた大関和さんは地元の廃娼運動に参加し、そこで木下尚江と知り合います。この頃の木下尚江はキリスト教に関心を持ち始めて、廃娼運動にも参加していた頃でした。
「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」によると木下は小柄ながら聡明で澄んだ瞳を持つ、大関和さんに圧倒される思いだったそうです。以降、2人は文通で気持ちを重ねるようになります。
木下尚江からの求婚
そんな2人の関係に転機がおとずれたのは1898(明治31)年のことです。
1897(明治30)年、木下尚江は普通選挙実現のための活動に従事しており、そのことがきっかけで恐喝詐欺の疑いをかけられて起訴されます。
翌年には重禁錮8ヶ月、罰金10円の判決を受けますが、木下は判決を不服として控訴。そのため東京の鍛治橋にある監獄に未決囚として収監されていました。
大関和さんは、木下が監獄に収監されていることに驚いて、すぐに面会に駆けつけます。やつれた木下の姿に同情した大関和さんは頻繁に慰問に訪れ、いつしか木下もその慰問を心待ちにし、結婚の意志を固めるようになります。
再婚を断念した大関和
相馬愛蔵の反対
1898(明治31)年12月、木下尚江は無罪が確定し出獄。故郷の信州で後輩の相馬愛蔵(そうまあいぞう)に大関和さんと結婚したいという話を切り出すと、相馬愛蔵は反対。
なぜなら相馬愛蔵は、大関和さんが知らなかった木下尚江の「よろしくない行状」を知っていたからです。その「よろしくない行状」とは、木下には廃娼運動に参加しながら遊女を囲っていたり、恋愛の対象となる女性が何人もいたことです。
相馬愛蔵には、木下尚江が純粋な性格の持ち主である大関和さんと結婚をすれば、木下が大関さんを傷つけるとという不安がありました。
相馬愛蔵は木下に結婚を申し込むことを諦めるように必死に説得。説得を受けた木下尚江は深い失望感に襲われながらも、相馬愛蔵の懸念を受け入れ、大関和さんとの結婚をきっぱり諦めます。
大関和さんの反応とその後
木下尚江からの求婚話がなくなったことを知った大関和さんの様子について、「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」ではこのように説明されています。
木下から相馬愛蔵の反対にあったという報を受けた大関は、心の奥底に一抹の寂しさを感じたものの、10歳も自分が年上だということに対する世間並みの反対も仕方ないことのように思えたのだった。将来ある弁護士木下尚江を、遠くから見守ろうと決意したのである。そしてまた、愛蔵が自分のことを心配してくれることに対しても感謝せずにはいられない気持ちだった。
この頃の大関和さんは鈴木雅(すずきまさ)(1857〜1940年)さんが経営する「東京看護婦会」に所属しながら、看護婦業界全体の質の向上を目指しており、多忙を極めていました。そのためいつまでも個人的な浮ついた気分に浸ることはできなかったようです。
結局、大関和さんは木下尚江と再婚をすることはなく、生涯シングルマザーであることを貫きます。
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