小説『檸檬』などで知られる梶井基次郎は、伊豆・湯ヶ島で療養生活を送りながら、川端康成・尾崎士郎・宇野千代らと交流していました。
特に宇野千代とは文学を通じて親しくなり、夫・尾崎士郎との間では梶井基次郎をめぐる対立も起きています。
その後、梶井基次郎は関西へ戻りましたが、1929(昭和4)年には京都や神戸で宇野千代と再会。病状が悪化する中でも創作を続け、1931(昭和6)年には生前唯一の作品集『檸檬』を出版しました。
翌1932(昭和7)年には『中央公論』に『のんきな患者』を発表しますが、同年3月24日、31歳の若さで亡くなっています。
この記事では、梶井基次郎が伊豆・湯ヶ島を離れた後どうなったのか、宇野千代との再会や尾崎士郎との交流、『檸檬』『のんきな患者』の発表から最期までを紹介します。
→ 宇野千代と梶井基次郎の関係
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結論|梶井基次郎は1932(昭和7)年に31歳で結核のため死去
梶井基次郎は伊豆・湯ヶ島で宇野千代や尾崎士郎らと交流した後、病状の悪化もあって関西へ戻り、療養生活を送りながら創作を続けました。
1929(昭和4)年には京都や神戸で宇野千代と再会しており、1931(昭和6)年には、かつて宇野千代をめぐって対立した尾崎士郎に手紙を送っています。
同年5月には生前唯一の作品集『檸檬』を出版。病床生活を送りながらも創作を続け、1932(昭和7)年1月には『中央公論』に『のんきな患者』を発表しました。
しかし病状はさらに悪化し、同年3月24日午前2時、31歳で死去しました。
→ 宇野千代と梶井基次郎の関係
→ 尾崎士郎と梶井基次郎の関係とは?
→ ブラッサム 梶矢基一郎(佐藤緋美)とは?
梶井基次郎はその後どうなった?大阪へ戻り療養生活を送る
梶井基次郎は伊豆・湯ヶ島で療養生活を送りながら、川端康成・尾崎士郎・宇野千代らと交流していました。
特に宇野千代とは文学を通じて親しくなり、1928(昭和3)年には夫・尾崎士郎が梶井基次郎を「恋の競争者」と意識するようになり、火のついた煙草を梶井に叩きつける事件も起きています。
しかし、この出来事の後も梶井基次郎と宇野千代、尾崎士郎との交流が完全に途絶えたわけではありません。
梶井基次郎はその後、病状の悪化もあって関西へ戻り、療養生活を送りながら創作を続けました。
そして1931(昭和6)年には生前唯一の作品集『檸檬』を刊行。翌1932(昭和7)年には『中央公論』に『のんきな患者』を発表しますが、同年3月24日、31歳の若さで亡くなりました。
→ 尾崎士郎と梶井基次郎の関係とは?
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1929年|宇野千代と京都・神戸で再会する
梶井基次郎は関西へ戻った後も、宇野千代との交流が完全に途絶えたわけではありませんでした。
『梶井基次郎全集 第三巻』の年譜によると、1929(昭和4)年10月下旬、京都を訪れていた宇野千代と会っています。
京都・神戸で宇野千代と再会
1929(昭和4)年10月下旬、梶井基次郎は京都に入った宇野千代と会い、一緒に近藤直人を京都大学病院に訪ねています。
さらに11月初旬にも宇野千代と再会。
同年12月2日には、梶井基次郎が神戸にいた宇野千代を訪問しています。
つまり1929年の年譜だけでも、
・10月下旬に京都で会う
・11月初旬に再び会う
・12月2日に神戸で訪ねる
このように1929年だけでも、梶井基次郎と宇野千代は関西地方で数回会っていたことが分かります。
『罌粟はなぜ紅い』のタイトルは梶井基次郎がつけた
なお1930(昭和5)年、宇野千代は報知新聞に連載していた『罌粟はなぜ紅い』の取材を通じて、洋画家・東郷青児と知り合い、その直後から同棲生活を開始。
その小説のタイトルとなっている『罌粟はなぜ紅い』は梶井が考えたものであると、宇野千代の作品『私の文学的回想記』で明記されています。
1929~1930年|病状が悪化する一方で創作を続ける
宇野千代と再会した1929年の終わりごろから、梶井基次郎の病状はさらに悪化していきます。
1929年12月には不眠に苦しみ、外出後に呼吸困難に陥りました。
大阪へ帰った後は臥床し、発熱のほか、動悸や呼吸困難などにも苦しんでいます。
1930年には肺炎で入院する
1930(昭和5)年1月には肺炎のため臥床。
2月25日には赤十字病院へ入院し、3月には呼吸困難に襲われました。
その後も病気と付き合いながら、大阪や兵庫県伊丹などで療養生活を送ることになります。
療養生活を送りながら『愛撫』『闇の絵巻』などを書く
病状が悪化する一方、梶井基次郎は創作活動をやめたわけではありません。
1930年5月には『愛撫』を脱稿し、6月に発表。
8月には『闇の絵巻』を脱稿し、10月に発表しました。
また12月には、訪ねてきた淀野隆三に『交尾』などの作品を見せています。
病気によって自由に外出することが難しくなっていく一方で、梶井基次郎は作品を書き続けていました。
1931年|病床から尾崎士郎に手紙を送る
1928年に宇野千代をめぐって激しく対立した尾崎士郎と梶井基次郎ですが、その後も2人の関係が断絶したわけではありませんでした。
『梶井基次郎全集 第三巻』には、1931(昭和6)年1月17日付で梶井基次郎から尾崎士郎に宛てた手紙が収録されています。
尾崎士郎ともう一度文学について語ることを望む
当時の梶井基次郎は病状が悪化し、外出することも難しくなっていました。
それでも尾崎士郎への手紙では、もう一度会って文学についてさまざまな話をしたいという思いを伝えています。
1928年には宇野千代をめぐって衝突した2人でしたが、その後は手紙を交わす関係となり、かつてのわだかまりは次第に解けていったと考えられます。
尾崎士郎と梶井基次郎の出会いから宇野千代をめぐる対立、その後の和解については別の記事で詳しく紹介しています。
1931年|生前唯一の作品集『檸檬』を刊行
1931(昭和6)年になると梶井基次郎の結核の病状はさらに悪化し、ほとんどを病床で過ごすようになります。
3月には食事や用便のとき以外は臥床する状態となり、5月にも寝たまま、枕元にノートとペンを置いて思いついたことを書き留めていました。
そのような状況の中、梶井基次郎にとって大きな出来事が起こります。
5月15日に創作集『檸檬』を出版
1931(昭和6)年5月15日、梶井基次郎の創作集『檸檬』が武蔵野書院から刊行されました。
『檸檬』は梶井基次郎の代表作として現在まで読み継がれていますが、梶井が生前に刊行した唯一の作品集でもあります。
病床生活を送りながらも作家としての評価は高まり、中央公論社からも小説の執筆を依頼されるようになりました。
1931~1932年|病床で『のんきな患者』を書く
1931(昭和6)年10月、梶井基次郎は大阪市住吉区王子町に移り、母親と二人で生活するようになります。
しかし病気はすでに重く、母親の看病を受けながら創作を続けていました。
そのような晩年の梶井基次郎が書いた作品が『のんきな患者』です。
『中央公論』から依頼を受けて執筆
梶井基次郎は中央公論社から小説の執筆依頼を受け、1931(昭和6)年12月10日に『のんきな患者』を脱稿。
翌1932(昭和7)年1月、『中央公論』新年号に『のんきな患者』が掲載されます。
『のんきな患者』では、病気や死を身近に感じながら生活する患者の姿が描かれています。
梶井基次郎自身も重い病気と闘っていた時期に書かれた作品であり、結果として生前最後に発表された小説となりました。
死の直前まで『のんきな患者』の続編を考える
『新潮日本文学アルバム 梶井基次郎』によると、1932年2月、絶対安静の病床にあった梶井基次郎は『のんきな患者』の続編を考えていました。
病状が深刻になっても、梶井基次郎は最後まで創作への意欲を失っていなかったことが分かります。
1932年|梶井基次郎は31歳で亡くなる
1932年に入ると、梶井基次郎の病状はいよいよ深刻になります。
2月には外出した後から体調を崩し、3月中旬には病状がさらに悪化。
そして1932年3月24日午前2時、梶井基次郎は31歳で死去。
同月25日、自宅において告別式が行われ、阿倍野葬儀場において荼毘に付されたのち、大阪市南区の常國寺に埋葬されました。
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参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
