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ブラッサム ネタバレ 離婚 宇野千代の4回の離婚がモデル

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目次

宇野千代の結婚歴と男性遍歴

宇野千代とは

NHKの2026年後期朝ドラ「ブラッサム」の主人公・葉野珠(はのたま)(石橋静河)のモデルとなった宇野千代(うのちよ)(1897~1996年)さんとは、日本の小説家・随筆家です。他にも編集者・実業家・着物デザイナーとしても知られています。

1921(大正10)年に「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞短編小説の一等に選ばれて小説家としてデビュー。それ以来、「色ざんげ(1935年)」・「おはん(1957年)」・「生きて行く私(1982年)」などの代表作を発表。

編集者・実業家としては1936(昭和11)年にスタイル社を創業し、日本初のファッション専門誌「スタイル」を創刊。また1949(昭和24)年には「宇野千代きもの研究所」を設立。1974(昭和49)年、勲三等瑞宝章を受賞。

さらに私生活では4回の結婚と離婚(藤村亮一藤村忠尾崎士郎北原武夫)、及び1回の同棲生活(東郷青児)をされたことでも知られています。

宇野千代の男性遍歴

宇野千代さんは誕生から98才までの年表を書くこともできますが、私生活の男性遍歴だけにしぼって年表を書くこともできます。

スクロールできます
西暦(和暦)年齢できごと
1911(明治44)年14才従兄の藤村亮一と結婚(1回目の結婚)をするが10日ほどで実家に戻り離婚(1回目の離婚)
1917(大正6)年20才従兄の藤村忠とともに上京。食堂の給仕などを経験
1919(大正8)年22才藤村忠と結婚(2回目の結婚)。札幌に移住
1922(大正11)年25才上京中に尾崎士郎と出会う
1923(大正12)年26才馬込村(現在の東京都大田区)で尾崎士郎と同棲を開始
1924(大正13)年27才藤村忠と離婚(2回目の離婚)
1926(大正15)年29才尾崎士郎と結婚(3回目の結婚)。伊豆湯ヶ島温泉で川端康成・梶井基次郎らと交流
1930(昭和5)年33才東郷青児と同棲生活を開始。尾崎士郎と離婚(3回目の離婚)
1934(昭和9)年37才東郷青児との同棲生活を解消
1939(昭和14)年42才北原武夫と結婚(4回目の結婚)
1959(昭和34)年62才スタイル社が倒産。北原武夫と共に多額の借金を背負う
1964(昭和39)年67才借金を全額返済。北原武夫と離婚(4回目の離婚)

なお、宇野千代さんの98年余りにわたる人生の年表については「宇野千代 年表(年譜) 朝ドラ ブラッサム 葉野珠のモデル」という記事を参考にしてください。

以下の文章では「ブラッサム ネタバレ 離婚」のキーワードがぴったり当てはまる、宇野千代さんの4回の離婚歴について紹介します。

宇野千代の4回の離婚歴

1. 藤村亮一: 離婚時期(1911年)

藤村亮一と結婚してから10日ほど経過した1911(明治44)年のある日、宇野千代さんは岩国高等女学校(現在の山口県立岩国高等学校)からの帰り道で、「鉄砲小路」と言われる藤村亮一の家に帰らず、「川西」にあった実家に戻ることになります。

このときには「鉄砲小路」と言われた藤村家の生活に違和感を覚えて、ホームシックのような状態にかかっていたようです。

宇野千代さんが実家に戻ったとき、父・宇野俊次は病気ですっかり痩せ衰えてしまい、これを機に「鉄砲小路」の藤村家には戻らないことを決意。結局、宇野千代さんは1回目の結婚とほぼ同時に離婚を経験することになりました。

2. 藤村忠: 離婚時期(1926年)

1921(大正10)年1月2日に「時事新報」の懸賞小説として「脂粉の顔」が一等に選ばれたことで、「書いていける」と自信を持った宇野千代さん。

今度は122枚の原稿用紙からなる「墓を発(あば)く」を執筆。東京のレストラン「燕楽軒」で知り合った中央公論(現在の中央公論新社)の滝田樗陰(たきたちょいん)にその作品を送ることに。

ところが滝田樗陰からは何の連絡もありません。不審に思った宇野千代さん「墓を発く」の掲載について問い合わせるため1922(大正11)年4月12日に札幌から上京。

すると「中央公論」の5月号に「墓を発く」は掲載されることになり、宇野千代さんは原稿料として366円もの大金を得ることになります。

思わぬ大金を得て興奮した宇野千代さんは、その金を継母・宇野リュウ5人の弟妹たちに見せるためだけに故郷・岩国に帰省しますが、このときを限りとして忠が住む札幌には戻ることはありませんでした。

1922(大正11)年には「墓を発く」を高く評価してくれた評論家・室伏高信に尾崎士郎を紹介されます。このときの様子を「宇野千代全集 第12巻」ではこのように説明しています。

当時、士郎は本郷の菊富士ホテルの「梅の間」に止宿していたが、初対面から心を奪われ、忽ち相愛の仲となる。そして千代も同ホテルの士郎の隣の部屋「竹の間」に移る。

宇野千代 宇野千代全集 第12巻 随筆 中央公論新社 272ページ

この後、宇野千代さんと尾崎士郎は住まいを転々とし、1923(大正12)年に2人は東京府荏原郡馬込村(現在の東京都大田区南馬込)に家を建て落ち着くことになります。

その一方で宇野千代さんは1924(大正13)年4月に藤村忠と2回目の離婚を経験。正式に尾崎士郎との結婚生活に入りした(ただし宇野千代さんと尾崎士郎の正式な結婚の届出は1926年2月)。

3. 尾崎士郎: 離婚時期(1930年)

1929(昭和4)年から宇野千代さんは新聞小説「罌粟はなぜ赤い」の連載を開始。その小説の中で、ある一組の男女がガスで情死をする場面が描かれることになります。

宇野千代さんはその差し迫った状況をどう表現すべきか悩み、当時、情死未遂事件を引き起こしていた洋画家・東郷青児に会って取材をしようとします。

取材のアポを取り付けるため宇野千代さんが東郷青児に電話をしたところ、「話すから自宅まで来てほしい」と言うことになり、そのまま宇野千代さんは世田谷にあった東郷の自宅で同棲を始めることに。

1930(昭和5)年4月、宇野千代さんは東京府荏原郡馬込村(現在の東京都大田区南馬込)から世田谷に転居。同年8月には尾崎士郎と3回目の離婚を経験することになります。

4. 北原武夫: 結婚期間(1964年)

宇野千代さんと北原武夫の婚姻関係を長く続けさせていたのは、2人が経営していた「スタイル社」が抱えていて借金の存在でした。

宇野千代さんが副社長、北原武夫が社長を務めていた「スタイル社」は戦後に驚異的な売上を誇ったものの、放漫経営のツケが祟って、1959(昭和34)年に多額の負債を抱えて倒産していました。

逆にこの「スタイル社」の借金が完済されたときには2人の関係は、すでに婚姻関係とは言えないものなっていたのです。

やっとのことで、借金の返済が全部済んだ。やれやれ、これで、全部すんだな、という気持ちがあっただろうか。おかしなことであるが、それがあんまり長い期間のことであったので、私たちの間の、一つの習慣のようになっていたことが、今日限り、なくなって了ったのだとでも言うような、一種、気の抜けたような気持ちになったのを覚えている。ひょっとしたら私は、この借金が全部すんで了ったら、二人の間をつないでいるものが、何にもなくなる、そう思っていたのではなかったか。

宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No. 2823

実際、宇野千代さんは北原武夫さんから離婚を切り出されて、特に反対することもありませんでした。結局、1964年9月、宇野千代さんは4回目の離婚を経験することになりました。、宇野千代さんは北原武夫さんから離婚を切り出され

ブラッサム ネタバレ 離婚 関連記事と参考書籍

ブラッサム ネタバレ 離婚 関連記事

宇野千代さんが経験した結婚生活や同棲生活については下記の記事が参考になります。

ブラッサム ネタバレ 離婚 参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考としています。

著:宇野 千代, 著:小林庸浩 ほか, 著:小林庸浩 ほか
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