風、薫る 梶原敏子のモデル 矢嶋楫子
風、薫るの梶原敏子とは
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で伊勢志摩さんが演じる梶原敏子(かじわらとしこ)とは、主人公の一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)が入学する梅岡看護婦養成所の所長で、梅岡女学校の校長も兼任しています。
梶原敏子のモデルは明治時代の教育者・社会事業家で、女子学院の初代院長を務めた矢嶋楫子(やじまかじこ)(1833~1925年)であると考えられます。
風、薫る 梶原敏子の役柄
朝ドラ「風、薫る」に登場する梶原敏子の役柄についてNHKは以下の通り発表しています。
女学校の校長と養成所長を兼任。学生が導入された学校教育の黎(れい)明期に教員となった。時代を切り拓いていく女性の育成に熱心。
引用した文章には「学生が導入された学校教育の黎(れい)明期に教員となった。」とありますが、正しくは「学制が導入された学校教育の黎(れい)明期に教員となった。」でしょう。
梶原敏子のモデルとなった矢嶋楫子は1873(明治6)年に小学校教員伝習所を卒業。小学校訓導試験にも合格し、桜川小学校の教員として採用されています。
矢嶋楫子が小学校の教員となったのは、1872(明治5)年に当時の明治政府によって導入された学制がスタートしたばかりの頃でした。
風、薫る 梶原敏子 役 伊勢志摩さん プロフィール
1969年生まれ、岩手県出身。NHK朝ドラの出演歴は「あまちゃん」と「虎に翼」
矢嶋楫子とはどんな人物だったのか
矢嶋楫子とは
矢嶋楫子は1873(明治6)年に小学校訓導試験に合格し、桜川小学校の教師として赴任。1878(明治11)年に学校経営者で宣教師のマリア・T・ツルーからの依頼を受けて新栄女学校(しんさかえじょがっこう)の校長に就任。
1881(明治14)年には桜井女学校の校長代理に転じ、1890(明治23)年には新栄女学校と桜井女学校が合併した女子学院の初代院長に就任。
また社会事業家としての矢嶋楫子には、1886(明治19)年に日本で最初の婦人団体・東京婦人矯風会(現在の公益財団法人日本キリスト教婦人矯風会)の会頭に就任し、禁酒運動・公娼廃止運動などに尽力した業績が挙げられます。
矢嶋楫子の出自と家族
矢嶋楫子の出自
矢嶋楫子が生まれた家は肥後国上益城郡津森村大字杉堂(現在の熊本県益城町杉堂)で、父親・矢嶋忠左衛門直明は、惣庄屋と代官を兼任する目付役。
また直明の父・矢嶋弥平次(矢嶋楫子の祖父)は岩国の錦帯橋を参考にした眼鏡橋を地元の川に独力で架けることができるほどの、設計能力と財力を併せ持つ人物でした。
矢嶋楫子の両親
| 名前 | 矢嶋楫子との関係 | 説明 |
|---|---|---|
| 矢嶋忠左衛門直明 | 父 | 肥後国上益城郡津森村で惣庄屋と代官を兼任する目付役 |
| 鶴 | 母 | 直明の妻。学問好きで娘たちにも女大学・論語や孟子の素読をさせていた |
矢嶋楫子の兄弟
矢嶋楫子が誕生したとき両親や兄弟たちは「女の子が生まれた」と、甚だしく失望したと言われています。
矢嶋楫子の伝記を記した「われ弱ければ(小学館文庫)」によると、揖子の誕生が歓迎されなかった理由として次男・五治郎が誕生して以来、矢嶋家には久しく男の子が生まれていなかったことや、当時の熊本が男尊女卑の激しい土地柄であったことを挙げています。
そのため揖子が誕生してもお七夜を過ぎても名前をつけられることがなく、哀れに思った10才年上の姉・順子が両親の代わりに「かつ」と名付けることに。
のちにこのことを知った揖子は心を深く傷つけ、笑うことが少ない少女になり、かえってきょうだいたちから「渋柿」とあだ名をつけられてからかわれていたそうです。
| 名前 | 兄弟姉妹の順 | 説明 |
|---|---|---|
| にほ子 | 長女 | 揖子の15才年上の姉。もと子の双子の姉 |
| もと子 | 次女 | 揖子の15才年上の姉。にほ子の双子の妹 |
| 直方 | 長男 | 揖子の13才年上の兄。左院議員(立法府の議員)兼大参事(各県の副知事) |
| 五治郎 | 次男 | 0歳児のうちに夭逝 |
| 順子 | 三女 | 揖子の10才年上の姉。政治思想家・横井小楠の高弟・竹崎茶堂に嫁ぐ。熊本女学校(のちの熊本フェイス学院高等学校)の校長 |
| 久子 | 四女 | 揖子の6才年上の姉。徳富家に嫁ぎ、徳富蘇峰と徳富蘆花の兄弟を出産 |
| つせ子 | 五女 | 揖子の3才年上の姉。横井小楠に嫁ぐ |
| 揖子 | 六女 | 本人。誕生後お七夜を過ぎても名前をつけてもらえず、三女・順子によって「かつ」と名付けられる |
| さだ子 | 七女 | 揖子の4才年下の妹 |
矢嶋楫子の子供たち
矢嶋楫子が産んだ子供は合計で4人いました。熊本時代の夫・林七郎との間にできた治定・なも子・達子と、長兄・直方の書生で東北出身の鈴木要介との間にできた妙子です。
矢嶋揖子は1873(明治6)年から鈴木要介と男女関係を持つことになり妙子を出産しました
| 名前 | 矢嶋楫子との関係 | 説明 |
|---|---|---|
| 治定 | 長男 | 林七郎との間にできた子供。揖子が夫と離婚したとき林家に残される |
| なも子 | 長女 | 林七郎との間にできた子供。揖子が夫と離婚したとき林家に残される |
| 達子 | 次女 | 林七郎との間にできた子供。揖子が夫と離婚したとき林家から連れ出し、1872(明治5)年に上京した時には妹・さだ子に預ける |
| 妙子 | 三女 | 鈴木要介との間にできた子供。生後直後に練馬の農家に里子に出される |
矢嶋楫子の年表(年譜)
| 西暦(和暦) | 年齢(数え) | できごと |
|---|---|---|
| 1833(天保4)年 | 1才 | 4月24日に矢嶋忠左衛門直明と鶴の間の六女として誕生。姉で三女・順子によって「かつ」と名付けられる |
| 1857(安政4)年 | 25才 | 横井小楠の弟子で250石取りの武士・林七郎と結婚 |
| 1868(慶応4/明治元)年 | 36才 | 夫・林七郎の酒乱のため体が衰弱し失明の危機に。七郎に抜き身の刀を投げられ怪我をしたことから離婚。娘の達子を連れ兄弟姉妹たちの家を転々とする生活を送るようになる |
| 1872(明治5)年 | 40才 | 東京にいる長兄・矢嶋直方の看病をするため1人で熊本から東京に上京。この頃に自身の名前を「かつ」から「揖子」に変える |
| 1873(明治6)年 | 41才 | 築地にあった小学校教員伝習所を卒業。小学校訓導試験に合格し桜川小学校の教師となる |
| 1876(明治9)年 | 44才 | 鈴木要介との間にできた子供・妙子を出産。長男・治定がキリスト教の洗礼を受ける(熊本バンドの結成) |
| 1878(明治11)年 | 46才 | 宣教師で学校経営者のマリア・ツルーから依頼され新栄女学校(現在の女子学院の前身となった学校の1つ)の校長となる。授業は聖書を使った修身の授業 |
| 1879(明治12)年 | 47才 | デイビット・タムソンから洗礼を受けクリスチャンとなるも、甥の徳富猪一郎(蘇峰)から糾弾を受ける |
| 1881(明治12)年 | 49才 | 7月15日に新栄女学校の校長職を退き、桜井女学校(女子学院の前身となった学校の1つ)の校長代理に |
| 1884(明治17)年 | 51才 | 甥・四郎(長兄・直方の息子)、達子、妙子と暮らすようになる |
| 1886(明治19)年 | 53才 | 12月6日、 日本で最初の婦人団体「東京婦人矯風会」が結成され矢嶋楫子が初代会頭に選ばれる。 |
| 1887(明治20)年 | 54才 | 1月に桜井女学校内に看護婦学校が開校。大関和・鈴木雅・桜川里以・広瀬うめ・池田子尾・小池民らが入学 |
| 1888(明治21)年 | 55才 | 10月26日、看護学生たちの修了式が行われるものの看護婦学校は閉鎖される |
| 1890(明治23)年 | 57才 | 9月9日、新栄女学校と桜井女学校が正式に合併し女子学院と改称。矢嶋楫子が初代院長に就任。11月、大関和に高田女学校の生徒取締兼伝道の任にあたるよう取り計らう |
| 1896(明治29)年 | 64才 | 4月18日、マリア・ツルーが55才で死去 |
| 1904(明治37)年 | 72才 | 2月10日、日露戦争が勃発。矯風会の活動として前線兵士への慰問袋の発送を行う |
| 1906(明治39)年 | 74才 | 万国矯風会第7回大会に代員として参加するために渡米 |
| 1920(大正3)年 | 82才 | 女子学院の院長を辞し、名誉院長となる |
| 1920(大正9)年 | 88才 | 世界婦人矯風会出席のためにガントレット恒子・渡瀬かめとともに渡欧 |
| 1920(大正10)年 | 89才 | この年矯風会会頭を辞す。5月、婦人矯風会支部設立のため達子とともに満州・朝鮮に渡る。9月、世界婦人矯風会出席のために渡米。ルーズベルト大統領を訪問し平和への願いを込めた署名簿を渡す。 |
| 1921(大正11)年 | 90才 | 米国より日本に帰国。過労のため倒れる |
| 1923(大正12)年 | 91才 | 9月1日関東大震災が発生し矯風会本部が焼失。12月19日。貞明皇后よりお見舞いの品を賜る |
| 1925(大正14)年 | 93才 | 6月16日に死去 |
矢嶋楫子 エピソード
婦人矯風会活動のきっかけとなった壮絶な夫婦生活
社会事業家としても知られる矢嶋楫子は、1886(明治19)年に、禁酒運動・公娼廃止活動などを目的とした「東京婦人矯風会」の初代会頭に選出されます。
この日本で最初の日本婦人団体のリーダーとなった経験は、なんといっても25才から35才までの10年間の間に経験した理不尽な結婚生活にあったと言えるでしょう。
矢嶋楫子がまだ「かつ」と名乗っていた1857(安政4)年、250石の武士であった林七郎のもとに嫁ぎます。
平素の七郎はおとなしかったものの、ひとたび酒を飲むと人ががらりと変わり、刀を抜いてかつやその子供たちの前で振り回すというとんでもない行動に出るのです。
しかもそうした行動は一度や二度のことではありませんでした。かつは絶えず緊張や戦慄を強いられ、10年も経つと体は極度に衰弱し、目は半盲状態に。
そんなある日、酒に酔った七郎が生まれたばかりの達子をめがけて抜き身の小刀を投げつけ、それを庇ったかつの二の腕に刀が命中するという事件が発生。これまでも刀を恐れて何度も実家に逃げ帰っては林家に戻ることをしていたかつですが、さすがに耐えかねて離婚をすることに。
翌朝、七郎はいつものようにかつを迎えに行った。今度ばかりは、かつは顔さえ出さなかった。再三再四、七郎は迎えに来た。子供たちも迎えに来た。が、かつは帰らなかった。
そしてついに、かつは黒髪を根本からぶつりと切って、七郎に渡すように兄に頼んだのである。女の命と言われる黒髪を、根元から切ったと知って七郎は仰天した。いまだかつて妻から夫に離縁を言い渡したためしを聞かない。
矢嶋楫子は、10年間の結婚生活においてアルコールによる害のなんたるかを身をもって知っていたからこそ、禁酒運動を掲げた婦人矯風会のリーダーになったとも言えるでしょう。
マリア・T・ツルーとの出会いとキリスト教の受洗
矢嶋楫子が教育者として大きく飛躍するきっかけを作ったのは、なんといっても宣教師でミッションスクールの経営者でもあるマリア・T・ツルーとの出会いでしょう。
1878(明治11)年、ツルーは小学校教師として評判が良かった矢嶋楫子に、自身が経営する新栄女学校の校長職に抜擢。
矢嶋楫子は小学校教師として6円の月給をもらっていましたが、ツルーは10円の月給で矢嶋楫子にオファーを出していますので、ツルーが揖子をいかに評価していたか分かるでしょう。ちなみに当時、女性の小学校教師の月給は3円から4円程度でした。
ところがミッションスクールの校長であるにもかかわらず、当時の矢嶋揖子はクリスチャンでもなく、聖書を読んだこともありません。それどころか楫子は当時のプロテスタントでは良くないとされていた喫煙の習慣も持っていました。
新栄女学校の教師たちは校長の矢嶋楫子が喫煙の習慣をもっていることを問題視しますが、ツルーは揖子に対して何ら指摘や指導をしません。
喫煙について何ら悪びれることがなかった楫子ですが、ある日、煙草の火の不始末を起こして校長室でボヤ騒ぎを起こしてしまいます。
楫子は煙草は酒と違って人に迷惑をかけないと思い込んでいましたが、一歩間違えれば生徒たちや教職員を巻き込む大惨事になると気づき、謝罪をするためにツルーの前に現れます。そのとき2人の間にはこのようなやり取りがあったようです。
「申し訳もございません。今後二度と煙草はのみません。ご存分になさってください。」
板の間に手をついて詫びる楫子に、ツルーは、自分もまた両手をついて言った。
「矢嶋先生、わたしこそ謝らなければなりません。でも、今日のぼや騒ぎは、神様の大きなお恵みですね」
ミセス・ツルーは微笑した。
「神様のお恵み!!」
思わぬ言葉に驚く楫子に、
「矢嶋先生、神さまは生きておられます。確かに生きておられます」
ミセス・ツルーは言ったかと思うと、その目から大粒の涙をこぼした。その涙も楫子には思わぬことであった。
厳しく叱責されることを覚悟していた矢嶋楫子は、ツルーは微笑みを見せて「神様は生きている」と言って泣いた意味を深く理解したかもしれません。
ボヤ騒ぎを起こした翌年、1879(明治12)年、矢嶋楫子はデイビット・タムソンに導かれて受洗し、クリスチャンとなりました。
矢嶋楫子と大関和・鈴木雅との関係
桜井女学校と桜井看護学校の校則は「聖書」
朝ドラ「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語 (中公文庫)」では、一ノ瀬りん(見上愛)のモデルとなった大関和さんと、大家直美(上坂樹里)のモデルとなった鈴木雅さんが、1888(明治21)年1月に桜井女学校内にできた桜井看護学校の入学式で、校長の矢嶋楫子から校則についてこのような訓示を受けている場面があります。
「あなたがたには聖書があります。自分で自分を治めなさい。」
桜井看護学校は日本で最初期にあった看護学校で、その学生たちは全寮制の寄宿舎に住むことになっていましたので、「校則は厳しかったのでは?」というイメージがあるかもしれません。しかし、矢嶋楫子が学生たちに言い渡した校則はたったこれだけだったのです。
実は桜井看護学校だけではなく、母体となった桜井女学校も校則について全く同じ考えをもっていました。
旧約聖書の「創世記」の第2章から第3章にかけて、アダムとイブは神から「善悪の知識の木」の実を食べてはいけないと言われていたにも関わらず、蛇に誘われてその実を食べてしまい、エデンの園から追放されるという記述があります。
1876(明治9)年に鈴木要介との間に妙子という「不義の子」を出産していたことから、誘惑に負けた人間はたった1つの規則も守ることはできないという考えをもっていた矢嶋楫子は、「アダムとイブ」の話から見える人間の本質と校則の関係をよく理解していたのです。
(当時の一般的な女学校は)等等、その他履き物、ショール、小遣い銭の額に至るまで定められ、男女の交際もまた厳禁された。当時十四、十五歳ともなれば、結婚する娘も珍しくなかったから生徒たちも自然早熟であった。どの学校も男女関係の乱れに神経を使っていた。その結果の校則であった。
が、楫子はそうした校則らしい校則を、すべて取り払ったのである。そして前述したように生徒たちに言った。
「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」
大関和に高田女学校舎監の仕事を紹介
大関和さんは1888(明治22)年10月に桜井看護学校を卒業し、帝国大学医科大学第一医院の外科看病婦取締(現在の看護師長に当たる職)に就任。
しかし1890(明治23)年11月に外科医局長の佐藤三吉に看病婦の待遇改善に関する建議書を提出したことが問題視され、退職に追い込まれます。
大関和さんは、「一家の大黒柱」として育ち盛りの長男・大関六郎さんと長女・大関心さん、さらに母・大関哲(「風、薫る」一ノ瀬美津のモデル)を養っていなければなりません。
職を失った大関和さんに新しい職を斡旋したのは、マリア・T・ツルーと矢嶋楫子でした。彼女たちは、女子学院の姉妹校であった高田女学校の舎監となれるようすぐに取り計らってくれました。
和はこの九月に女子学院となった桜井女学校へ戻っていた。マリア・T・ツルーと矢嶋楫子は和を温かく迎え入れ、越後高田にある女子学院の姉妹校である高田女学校の生徒取締兼伝道の任にあたるよう、とりはからってくれた(『女子学院五十年史』七頁)。一一月のことだった。
風、薫る 梶原敏子 モデル 関連記事と参考文献
風、薫る 梶原敏子 モデル 関連記事
朝ドラ「風、薫る」に登場する人物の中には矢嶋楫子がモデルと考えられる梶原敏子以外にも、実在した人物がモデルとなっている登場人物がいます。その「モデル一覧」については下記の記事が参考になるでしょう。
風、薫る 梶原敏子 モデル 参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案にもなっています。
