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風、薫る 梶原敏子 どうなる モデル・矢島揖子 93才で死去

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目次

記事の概要

風、薫る 梶原敏子のネタバレ まとめ

  • 朝ドラ「風、薫る」の梶原敏子(伊勢志摩)のモデルは矢嶋楫子(1833~1925年)
  • 矢嶋楫子は明治時代から大正時代にかけての教育者で女子学院の初代院長を務めた
  • 矢嶋楫子は1890(明治23)年11月に帝大医院で看病婦取締の職をおわれた大関和さんに高田女学校の生徒取締(舎監)の職を用意した
  • 矢嶋楫子は「東京婦人矯風会」の初代会頭でもあり、禁酒運動や公娼廃止運動(廃娼運動)にも尽力した社会事業家でもあった
  • 1925(大正14)年6月16日、老衰のため死去

矢嶋楫子と大関和の関係 史実に基づくエピソード

帝大医院を退職させられた大関和

「風、薫る」の一ノ瀬りん(見上愛)のモデルとなった大関和さんは、1888(明治22)年10月26日に「桜井女学校附属看護婦養成所(「風、薫る」の梅岡看護婦養成所のモデルとなった看護学校)」を卒業。

帝国大学医科大学第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)の外科看病婦取締(現在の看護師長に当たる職)に就任しました。

しかし1890(明治23)年11月に外科医局長の佐藤三吉(「風、薫る」の今井益男のモデル)に看病婦の待遇改善に関する建議書を提出したことが問題視され、退職に追い込まれます。

職を失った大関和に再就職先を斡旋した矢嶋楫子

大関和さんは、「一家の大黒柱」として育ち盛りの長男・大関六郎さんと長女・大関心さん、さらに母・大関哲「風、薫る」一ノ瀬美津のモデル)を養っていかなければなりません。

そこで、職を失った大関和さんに新しい職を斡旋したのは、マリア・T・ツルー「風、薫る」のメアリーのモデル)と矢嶋楫子(梶原敏子のモデル)でした。彼女たちは、女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)の姉妹校であった高田女学校の生徒取締(舎監)の職につくことができるよう、すぐに取り計らってくれたのです。

和はこの九月に女子学院となった桜井女学校へ戻っていた。マリア・T・ツルーと矢嶋楫子は和を温かく迎え入れ、越後高田にある女子学院の姉妹校である高田女学校の生徒取締兼伝道の任にあたるよう、とりはからってくれた(『女子学院五十年史』七頁)。一一月のことだった。

亀山美知子 大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語 ドメス出版 58ページ

その後の矢嶋楫子 公娼廃止運動に参加した史実

禁酒運動とともに公娼廃止運動に尽力した矢嶋揖子

矢嶋楫子は、1890(明治23)年9月9日に桜井女学校と新栄女学校が合併した女子学院の初代院長であり、明治時代から大正時代の教育者として有名です。

その一方で、矢嶋楫子は1886(明治19)年12月6日に誕生した日本で最初の婦人団体「東京婦人矯風会」の初代会頭に就任した社会事業家としても知られています。

矢嶋楫子が婦人団体に共感を覚えた理由は、自身の壮絶な結婚生活から、禁酒運動に参加するためです。ただ「東京婦人矯風会」の活動は禁酒運動にとどまりせんでした。

矯風会の活動は、女性の社会的地位向上に関わるものが多く、その1つに「公娼廃止運動(廃娼運動)」があります。

当時の議会に公娼制度廃止の請願書を提出

「風、薫る」の第10週から第11週にかけて夕凪(村上穂乃佳)(花紫のモデル)という女郎が心中未遂事件に巻き込まれて、りんや直美(上坂樹里)鈴木雅さんのモデル)が看護実習をする大学病院に搬送されてくるという話が展開されます。

このエピソードは明治時代半ばに全国的に盛んであった「廃娼運動」の史実に基づいて描かれるお話ですが、梶原敏子のモデルである矢嶋楫子はこの廃娼運動にも関わっていました。

1890(明治23)年、矢嶋揖子を会頭とする「東京婦人矯風会」は当時の議会である、貴族院と衆議院の両院に対して公娼制度廃止の請願書を、さらには各省庁の大臣に対しては廃娼の決議書を提出します。

女性のための授産施設・「慈愛館」を設立

実は、明治政府は1872(明治5)年、すでに「娼妓解放令」を布告して、女郎が遊郭を辞められることを法律で定めていました。

しかし女郎が遊郭を辞めることを法律的に保障したとしても、その後の経済的な保障は何もありません。そのため女郎は遊郭に自主的に留まらざるを得ず、かえって状況が悪化していました。

そこで「東京婦人矯風会」は、女郎など社会的に苦しい立場の女性のために手に職をつけてもらうことを目的として、新宿の百人町に「慈愛館」という授産施設を開設。

ところで、この年の初めごろ、ヤングマンがかつて提案したことのある娼婦のためのレスキュー・ホームは、婦人矯風会の具体的な取り組みを見ることになり、慈善館として、ひとまずヤングマンの御殿場の家を借りて開設されたのだったが(『婦人矯風会雑誌』第四号、明治二七年二月二日)、六月には「女子慈愛館」として設立されることになった(『婦人矯風会雑誌』第八号、明治二七年六月二日)。

亀山美知子 「女たちの約束: M.T.ツル-と日本最初の看護婦学校」ドメス出版 281ページ

この「慈愛館」にはついては、「風、薫る」の原案となっている「明治のナイチンゲール 大関和物語」でも言及されています。

楫子は女子学院の院長を務めながら、婦人矯風会の全国組織「日本キリスト教婦人矯風会」を結成し、その会頭となっていた。
「矯風会が設立した慈愛館がこの近くということもあり、先生は毎週いらっしゃいます。和さんは慈愛館へ行ったことがありますか」
「いえ。私はまだ行ったことがありません」
二年前、雅が廃業した娼妓たちの授産施設が完成したので暇を見つけて来るように誘ってくれたにもかかわらず、それっきりになっていた。

田中ひかる 明治のナイチンゲール 大関和物語 (中公文庫) 185ページから186ページ

同じく「明治のナイチンゲール 大関和物語」によると、女郎を廃業して「慈愛館」に入った一部の女性たちは、「衛生園看護婦養成所」を経由して看護婦となり、大関和さんが鈴木雅さんから引き継いで経営した「東京看護婦会」や、のちに新しく設立される「大関看護婦会」では働くようになったと説明されています。

矢嶋楫子の晩年と死去

その後の矢嶋楫子は教育者・社会事業家としての活動を続け、1920(大正10)年9月には、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領を訪問し、平和への願いを込めた署名簿を提出。

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で、矯風会の本部事務所が焼失するなどの被災をしますが、代議士たちを呼び公娼廃止に関する交渉などを続けていたと伝わっています。

そして1925(大正14)年6月16日午前1時10分に死去。亡くなったときの状況を考えると死因は老衰であると考えられるでしょう。

矢嶋楫子の伝記小説である「われ弱ければ(小学館文庫)」によると、臨終直前には、貞明皇后から届いたお見舞いの品を始めとして数多くの見舞客がひっきりなしにやってきたと伝えられています。

風、薫る 全話あらすじと最終回までのネタバレ

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朝ドラ「風、薫る」のあらすじ全話まとめ・登場人物とキャスト・モデル人物・相関図を知りたい方は、下記の記事が参考になるでしょう。

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風、薫る 梶原敏子 どうなる 関連記事と参考文献

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風、薫る 梶原敏子 どうなる 参考文献

今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案にもなっています。

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