小説家・宇野千代(1897~1996年)と中央公論社の社長・嶋中雄作(1887~1949年)は、雑誌『中央公論』『婦人公論』を通じて交流があった作家と編集者です。
宇野千代は滝田樗陰が死去したのちも、嶋中雄作が編集長を務めた雑誌に小説や随筆を寄稿し、中央公論社から『色ざんげ』などの著書を刊行しました。
また、二人には仕事を超えた個人的な交流もあり、宇野千代は嶋中雄作の自宅で見た人形から、小説『人形師天狗屋久吉』の着想を得ています。
なお朝ドラ「ブラッサム」において『首都公論』の副編集長・山中勇三は、この嶋中雄作をモデルにしている可能性があります。
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【結論】宇野千代と嶋中雄作は作家と編集者として交流し、創作にも影響を与えた
宇野千代と嶋中雄作は、雑誌『中央公論』『婦人公論』を通じて、作家と編集者という立場で交流していました。
嶋中雄作は滝田樗陰のもとで編集者として経験を積み、1916(大正5)年に『婦人公論』の初代編集長となり、1928(昭和3)年には中央公論社の社長に就任した人物です。
宇野千代は嶋中雄作が編集に携わった雑誌に作品を発表し、中央公論社から『罌粟はなぜ紅い』『色ざんげ』などを刊行しました。
二人は私生活でも交流があり、吉屋信子の著書には一緒に大相撲を見物したことが記されています。
さらに、宇野千代は嶋中雄作の自宅で阿波の人形師・天狗屋久吉の作品を見たことをきっかけに、1942(昭和17)年に徳島へ取材旅行を行い、小説『人形師天狗屋久吉』の執筆につなげました。
このように、嶋中雄作は宇野千代の作品発表を支えただけでなく、その創作活動にも影響を与えた人物でした。
→ 宇野千代と滝田樗陰の関係とは?
→ 宇野千代の人間関係 交流のあった作家・芸術家たち
宇野千代と嶋中雄作の関係とは?
嶋中雄作は「中央公論」「婦人公論」を発行する中央公論社の社長
嶋中雄作(しまなかゆうさく)(1887~1949年)は、雑誌『中央公論』『婦人公論』を発行する中央公論社の社長を務めた出版人・編集者です。
奈良県出身で、早稲田大学文学部哲学科を卒業後、1912(大正元)年に中央公論社へ入社。
『中央公論』の編集を率いていた滝田樗陰のもとで経験を積み、1916(大正5)年には女性の権利拡張を掲げた雑誌『婦人公論』の創刊に携わり、初代編集長となりました。
1925(大正14)年に『中央公論』『婦人公論』の編集長を兼任し、1928(昭和3)年には中央公論社の社長に就任。
社長就任後は書籍の出版事業にも力を入れ、『西部戦線異状なし』や谷崎潤一郎による『源氏物語』の現代語訳などを刊行。中央公論社を雑誌中心の出版社から総合出版社へと発展させました。
宇野千代は『中央公論』『婦人公論』に小説や随筆を多数寄稿
もともと宇野千代は『中央公論』の「名物編集長」と呼ばれた滝田樗陰に見出された小説家です。
しかしその滝田樗陰が1925(大正14)年10月27日に亡くなったのちも、宇野千代は、嶋中雄作が編集長を務める『中央公論』や『婦人公論』でも小説や随筆などの作品をたびたび掲載し、書籍も刊行しています。
そのうち、代表的な作品は以下のとおりです。
| 年 | 作品名 | 掲載・刊行 |
|---|---|---|
| 1926(大正15)年 | 「家」 | 『中央公論』に掲載 |
| 1928(昭和3)年 | 「新しき生活への出発」 | 『婦人公論』に掲載 |
| 1930(昭和5)年 | 『罌粟はなぜ紅い』 | 中央公論社から単行本刊行 |
| 1931(昭和6)年 | 『大人の絵本』 | 『中央公論』に掲載 |
| 1934~1935(昭和9~10)年 | 「色ざんげ」 | 『中央公論』に連載 |
| 1935(昭和10)年 | 『色ざんげ』 | 中央公論社から単行本刊行 |
特に『罌粟はなぜ紅い』は、宇野千代が洋画家・東郷青児に取材したことをきっかけに執筆した作品です。
また、代表作『色ざんげ』は『中央公論』での連載を経て、中央公論社から単行本として刊行されました。
こうした「作家と編集者」という宇野千代と嶋中雄作の関係は、太平洋戦争の激化に伴い言論への統制が厳しくなった1942(昭和17)年まで続きます。
→ 宇野千代と滝田樗陰の関係
→ 東郷青児とは?宇野千代の同棲相手
宇野千代と嶋中雄作は仕事を超えて個人的にも交流
さらに宇野千代と嶋中雄作は「作家と編集者」という枠を超えて、個人的な交流もありました。
宇野千代と交流があったことでも知られる小説家・吉屋信子は著書『自伝的女流文壇史』において、
- 嶋中雄作
- 宇野千代
- 吉屋信子
- 田村俊子
の4人で大相撲を枡席で見物したことを語っています。
宇野千代は嶋中雄作の自宅で見た人形から創作の着想を得る
嶋中雄作の自宅で阿波の人形師・天狗屋久吉の作品を見る
宇野千代は自伝『生きて行く私』の中で、中央公論社の社長・嶋中雄作の自宅を訪れた際、阿波の人形師・天狗屋久吉が制作した人形の頭を見せてもらったことを振り返っています。
当時、嶋中雄作は東京の本郷林町に住んでおり、その自宅には天狗屋久吉が制作した人形の頭がありました。
宇野千代は、人形が目を開閉させるだけでなく、眉まで動かして表情を変えることに驚き、その作者である天狗屋久吉に強い関心を抱きました。
1942年5月ごろ「人形師天狗屋久吉」の取材のため徳島へ旅行
宇野千代は嶋中雄作の自宅で人形を見たことをきっかけに、天狗屋久吉について調べるため徳島へ向かいました。
『宇野千代全集 第12巻』の年譜によると、1942(昭和17)年5月ごろ、小説『人形師天狗屋久吉』の取材のため徳島を旅行しています。
この取材を通じて得た経験が、後に『人形師天狗屋久吉』の執筆につながりました。
→ 宇野千代の年表
嶋中雄作とは?中央公論社での経歴と滝田樗陰との関係
1912(大正元)年に中央公論社へ入社
嶋中は早稲田大学在学中、文学者・島村抱月に師事しており、その紹介で中央公論社の社長・麻田駒之助と面会し、1912(大正元)年10月に入社することになりました。
当時の『中央公論』は、名編集者・滝田樗陰の活躍によって雑誌界で高い評価を得ていた時期です。
嶋中はその滝田樗陰のもとで編集者として働き始めましたが、入社当初は窓際に机と椅子を置いてもらう程度で、編集者としての仕事はほとんど与えられませんでした。
しかし、嶋中は雑誌の編集に強い関心を持ち、自ら新しい企画を考えるようになります。
1916(大正5)年に『婦人公論』の初代編集長に就任
中央公論社に入社したころの嶋中雄作は、女性の社会的地位の向上や婦人問題に関心がありました。
1913(大正2)年には、滝田樗陰に提案して『中央公論』の臨時増刊「婦人問題号」を刊行。この企画が好評だったことから、女性向けの新しい雑誌の創刊を麻田駒之助社長に提案しました。
こうして1916(大正5)年1月、『婦人公論』が創刊され、嶋中雄作が初代編集長に就任。
『婦人公論』は女性の自覚と解放を掲げ、女性の社会的地位や家庭、結婚などの問題を積極的に取り上げました。
嶋中は編集長として新しい女性雑誌の発展に取り組み、『婦人公論』を中央公論社の代表的な雑誌の一つへと育てていきました。
滝田樗陰のもとで編集者として経験を積む
嶋中雄作は中央公論社に入社してから約3年間、滝田樗陰のもとで『中央公論』の編集を手伝いました。
滝田樗陰は優れた作家を発掘し、文学作品や評論を積極的に掲載することで、『中央公論』を日本有数の総合雑誌へと成長させた編集者です。
一方、滝田樗陰は編集方針について強いこだわりを持ち、部下に対しても厳しい態度で接する人物でした。
嶋中雄作も滝田樗陰のもとで厳しく指導されましたが、編集者としての能力を身につけ、やがて『婦人公論』の編集を任されるようになります。
ただし、二人の考え方が常に一致していたわけではありません。
嶋中は女性問題や社会問題を積極的に取り上げ、新しい読者層を開拓しようとしました。
こうした嶋中の取り組みは、滝田樗陰が築いた『中央公論』の編集方針とは異なる部分もありました。
それでも、嶋中は滝田樗陰の編集者としての能力を高く評価しており、その死後も滝田樗陰が残した業績を受け継いでいくことになります。
1928(昭和3)年に中央公論社の社長に就任
1925(大正14)年、中央公論社の編集を長年にわたって率いてきた滝田樗陰が死去。
その後、嶋中雄作は『中央公論』の編集にも深く関わるようになり、1928(昭和3)年8月1日には中央公論社の社長に就任しました。
社長就任後の嶋中は、雑誌の発行だけでなく、書籍の出版事業にも力を入れました。
1929(昭和4)年には出版部を設け、エーリヒ・マリア・レマルクの小説『西部戦線異状なし』を刊行。同書はベストセラーとなり、中央公論社の出版事業の発展につながりました。
こうして嶋中雄作は、滝田樗陰が発展させた『中央公論』の伝統を引き継ぎながら、中央公論社を雑誌と書籍の両方を手がける出版社へと成長させました。
朝ドラ「ブラッサム」の山中勇三は嶋中雄作がモデルか?
朝ドラ「ブラッサム」で井浦新さんが演じる山中勇三は、文芸雑誌『首都公論』の副編集長で、編集長・黒崎大三郎(遠藤憲一)の右腕として活躍する人物です。
史実でも嶋中雄作は『中央公論』の編集長・滝田樗陰のもとで経験を積んでおり、両者の共通点から山中勇三のモデルになった可能性があります。ただし、NHKはモデルを公表していません。
→ ブラッサム 山中勇三(井浦新)とは?
→ ブラッサム 黒崎大三郎(遠藤憲一)とは?
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宇野千代 嶋中雄作 関連記事
山中勇三とは?
朝ドラ「ブラッサム」で井浦新さんが演じる山中勇三は、文芸雑誌『首都公論』の副編集長です。
編集長・黒崎大三郎の右腕として活躍する人物で、史実の嶋中雄作との共通点からモデルになった可能性があります。ただし、NHKはモデルを公表していません。
ブラッサム モデル一覧
朝ドラ「ブラッサム」の登場人物と、そのモデルと考えられる実在人物を一覧で紹介しています。
主人公・葉野珠のモデルとなった宇野千代をはじめ、作家や編集者など、ドラマと史実の関係を確認できます。
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宇野千代とは?
朝ドラ「ブラッサム」の主人公・葉野珠のモデルとなった小説家・宇野千代の生涯を紹介します。
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→ 宇野千代とは誰?
宇野千代の年表
宇野千代の生涯を年代順にまとめた記事です。
『中央公論』『婦人公論』への作品発表や、滝田樗陰をはじめとする編集者・作家との交流、1942年の徳島取材旅行などを時系列で確認できます。
→ 宇野千代の年表
宇野千代の人間関係
宇野千代が生涯を通じて交流した小説家、編集者、画家などの人物を紹介します。
滝田樗陰や嶋中雄作をはじめ、宇野千代の文学活動や私生活に関わった人物との関係を解説しています。
ブラッサム 作品紹介
朝ドラ「ブラッサム」とは?
作品概要やキャスト、主人公・葉野珠のモデルとなった宇野千代について紹介します。
ブラッサム 山中勇三が登場する週
嶋中雄作がモデルとなっている「ブラッサム」の山中勇三は5週・7週で登場します。
山中勇三は珠が持つ文学的才能を早くから気づく人物として描かれます。
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ブラッサム あらすじ
朝ドラ「ブラッサム」の最新週から1週までのあらすじを随時更新します。
ブラッサム ネタバレ最終回まで
朝ドラ「ブラッサム」の最終回までの展開や主要人物の結末について紹介します。
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
