中村修子は、実業家・中村幹治の娘で、洋画家・東郷青児と1929(昭和4)年2月17日に結婚式を挙げた女性です。
当時の東郷青児には妻・永野明代がおり、西崎盈子とも恋愛関係にありましたが、盈子と一時的に離れていた時期に修子と出会い、結婚を決めました。
しかし二人の新婚生活は長く続かず、修子は結婚前に交際していた男性と駆け落ちし、東郷のもとから失踪。
その後は外国人医師と結婚したとされていますが、以後の消息は分かっていません。
この記事では、中村修子の生い立ちや東郷青児との出会い、1929年の結婚式と短い新婚生活、失踪、その後について紹介します。
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結論|中村修子は東郷青児と結婚式を挙げるも短期間で失踪
中村修子は実業家・中村幹治の娘として裕福な家庭で育ち、1928(昭和3)年にフランスから帰国した東郷青児と出会いました。
修子に一目惚れした東郷は結婚を決め、1929(昭和4)年2月17日に東京・芝の紅葉館で結婚式を挙げます。
しかし、東郷には妻・永野明代がおり、二人の離婚はまだ成立していませんでした。
また、東郷は西崎盈子とも恋愛関係にあり、修子との結婚から約1か月後には盈子と再会しています。
一方の修子も結婚前に交際していた男性と駆け落ちして東郷のもとから失踪し、二人の関係は短期間で終わりました。
澤地久枝氏の『完本-昭和史のおんな(上)』によると、その後の修子は外国人医師と結婚したとされていますが、それ以降の消息は分かっていません。
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中村修子とは?
実業家・中村幹治の娘
中村修子は、実業家・中村幹治の娘です。
父・中村幹治は立志伝中の人物といわれ、帝国連合電球の専務取締役を務めていました。
澤地久枝『完本-昭和史のおんな(上)』によると、修子は裕福な家庭で両親から溺愛されて育った女性だったようです。
東郷青児と恋愛関係になった女性たちの多くが、美貌に恵まれただけでなく、裕福な家庭で育っていますが、修子もその一人でした。
東郷青児が中村修子に一目惚れ
中村修子は東郷青児と出会う以前にも恋愛経験がありました。
修子と出会った東郷は、日本人女性には珍しい整った脚の線や、病身を思わせる独特の微笑などに惹かれたと回想しています。
そして東郷は修子に一目惚れ。
当時の東郷は、1920(大正9)年に結婚した妻・永野明代と離婚話が出ていたものの、正式な婚姻関係が継続中。
さらに1928(昭和3)年にフランスから帰国した後には、西崎盈子と恋愛関係になっていました。
ところが西崎家から二人の交際を反対されたことなどから、東郷と盈子は一時的に会わなくなります。
その約4か月の間に東郷が出会い、結婚を決めたのが中村修子でした。
中村修子と東郷青児の結婚
1929年2月17日に結婚式
1929(昭和4)年2月17日、中村修子と東郷青児は東京・芝の紅葉館で結婚式を挙げました。
ただし、この時点でも東郷と永野明代の離婚は成立していません。
そのため、中村修子との結婚を法律上の婚姻と同じ意味で捉えることには注意が必要です。
結婚式も変わったもので、新郎側から出席したのは東郷青児本人と、のちに紀伊國屋書店を創業する田辺茂一だけだったといいます。
鹿島谷の家で新婚生活
結婚式を終えた二人は、東京の鹿島谷にあった家で新婚生活を始めました。
澤地久枝氏の著作である『完本-昭和史のおんな(上)』によると、修子は東郷と田辺茂一の親しい関係にも嫉妬するほど、東郷に強い愛情を向けていたようです。
東郷と修子、田辺茂一と別の女性という二組の男女で待ち合わせ、新宿の紀伊國屋画廊で開かれていた「東郷青児・阿部金剛二人展」を見に行ったこともありました。
しかし、中村修子と東郷青児の新婚生活は長く続きませんでした。
中村修子が東郷青児のもとから失踪
東郷青児と西崎盈子が再会
中村修子との結婚から約1か月後、東郷青児は以前恋愛関係にあった西崎盈子と再会。
1929(昭和4)年3月になると、東郷と盈子の間では再び「死」が語られるようになり、3月23日には二人の関係が深刻な状態へ進んでいました。
ところが同じころ、東郷は修子が新居からいなくなっていることを知ります。
結婚前の恋人と駆け落ち
中村修子が東郷青児のもとから失踪した理由は、結婚前に交際していた男性のもとへ走ったためでした。
こうして、1929年2月に結婚式を挙げた中村修子と東郷青児の関係は、わずかな期間で事実上終わることになります。
一方、東郷と西崎盈子の関係はその後さらに深まり、同年3月30日には二人が情死を図る事件へと発展。
その翌日の3月31日付の『東京朝日新聞』の社会面において、十段抜きのスクープとして報じられることになります。
東郷の男女関係は「四角関係」
また、東郷の最初の妻である永野明代との離婚協議は依然として継続中でした。
この時点の東郷は、妻・永野明代との離婚が成立していない一方、西崎盈子との関係を続けながら、中村修子と結婚式を挙げていました。
つまり、東郷を中心に
・永野明代
・西崎盈子
・中村修子
という3人の女性が関わる「四角関係」の状態にあったといえます。
中村修子は東郷青児との関係に区切りをつけましたが、相手の東郷は男女の「四角関係」が「三角関係」になっただけでした。
そして東郷は西崎盈子との「情死未遂事件」ののち、1930(昭和5)年に『罌粟はなぜ紅い』の取材を通じて、小説家・宇野千代と知り合い、まもなく同棲生活を始めます。
すると今度は、東郷青児の男女関係は、
・永野明代
・西崎盈子
・宇野千代
となり、東郷の「三角関係」は再び「四角関係」となってしまったのです。
中村修子のその後
外国人医師と結婚したとされる
東郷青児のもとを離れた中村修子は、その後どうなったのでしょうか。
『完本-昭和史のおんな(上)』によると、その後の修子は外国人医師と結婚したとされています。
ただし、結婚した医師の名前や結婚した時期などについては記されていません。
その後の消息は不明
外国人医師と結婚したとされる中村修子ですが、それ以降の消息について澤地久枝氏は明らかではないとしています。
そのため、現在確認できる範囲では、中村修子がその後どこで暮らしたのか、どのような人生を送ったのか、亡くなった時期などは分かっていません。
東郷青児との結婚生活は非常に短いものでしたが、1929年に東郷をめぐって起きた複雑な女性関係を知るうえで、中村修子は重要な人物の一人です。
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東郷青児
東郷青児は、昭和を代表する洋画家の一人です。
1928(昭和3)年にフランスから帰国したのち、中村修子と結婚式を挙げましたが、当時は永野明代との婚姻関係が続いており、西崎盈子とも恋愛関係にありました。
東郷青児の妻と女性遍歴
東郷青児は、生涯に複数の女性と恋愛関係になり、結婚・同棲などが重なる複雑な女性遍歴をたどりました。
最初の妻・永野明代との結婚から、西崎盈子との恋愛、中村修子との結婚式、宇野千代との同棲、その後の西崎盈子との結婚までを時系列で解説しています。
永野明代
永野明代は、東郷青児が1920(大正9)年に結婚した妻で、長男・東郷志馬の母です。
東郷青児が中村修子と結婚式を挙げた1929(昭和4)年の時点でも二人の離婚は成立しておらず、離婚協議が続いていました。
西崎盈子
西崎盈子(のちの東郷盈子)は、東郷青児の妻となった女性で、長女・東郷たまみの母です。
東郷青児と中村修子が結婚式を挙げた約1か月後には東郷と再会し、1929(昭和4)年3月30日に二人で情死を図る事件を起こしました。
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参考文献
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