MENU
本ページはプロモーションが含まれています

川端康成の妻・川端秀子とは?出会い・結婚生活と宇野千代との交流を解説

kawabata-hideko
  • URLをコピーしました!

ノーベル文学賞を受賞した小説家・川端康成(1899~1972年)の妻は、青森県八戸出身の川端秀子(1907~2002年)です。

川端秀子は1925(大正14)年に川端康成と出会い、1926(大正15)年ごろから共同生活を始め、1931(昭和6)年に正式に入籍しました。

若いころの川端家には横光利一や片岡鉄兵らの文士仲間が頻繁に訪れ、秀子は家計をやりくりしながら夫の文学活動を支えていました。

また、馬込文士村では宇野千代や尾崎士郎らとも交流しています。

この記事では、秀子自身の回想録『川端康成とともに』や『川端康成全集 補巻二』をもとに、生い立ち、川端康成との馴れ初め・結婚、夫婦生活、宇野千代との関係を解説します。

→ 宇野千代と川端康成の関係
→ ブラッサム モデル一覧

目次

結論|川端康成の妻は川端秀子!1926年から共同生活・1931年に入籍

川端康成の妻は、旧姓を松林という川端秀子です。

秀子は1907(明治40)年2月8日に青森県八戸町で生まれ、1924(大正13)年に父親を火災で亡くしたことをきっかけに上京。

1925(大正14)年に菅忠雄の家で川端康成と出会い、翌1926(大正15)年4月ごろから共同生活を始めています。

正式な入籍は1931(昭和6)年12月2日ですが、秀子自身は実質的な結婚生活がいつ始まったのか、明確な区切りはなかったと振り返っています。

川端家には文士仲間が頻繁に訪れ、秀子は生活費の不足を自分の貯金で補いながら、夫と文学者たちの交流を支えました。

また、1928~1929年ごろには馬込町で暮らし、近所に住んでいた宇野千代とも親しく付き合っていました。

→ 宇野千代と川端康成の関係
→ 宇野千代の人間関係とは?

川端康成の妻・川端秀子とは?

川端秀子(かわばたひでこ、1907~2002年)は、ノーベル文学賞を受賞した小説家・川端康成(1899~1972年)の妻です。

旧姓は松林で、戸籍上の名前は「ヒテ」。青森県八戸町(現在の八戸市)に生まれ、八戸高等女学校を卒業しました。

1925(大正14)年に東京で川端康成と出会い、1926(大正15)年ごろから共同生活を始め、1931(昭和6)年12月2日に正式に入籍しています。

秀子は、川端康成がまだ若手作家だった時代から、その文学活動と日常生活を支え続けました。

夫の死後には回想録『川端康成とともに』を出版し、作家としての川端康成だけでなく、家庭での姿や文学者仲間との交流についても証言を残しています。

川端秀子の生年月日・出身地・旧姓

川端秀子は1907(明治40)年2月8日、青森県三戸郡八戸町(現在の青森県八戸市)で誕生。

旧姓は松林で、父親は松林慶蔵です。

『川端康成とともに』によると、秀子は松林慶蔵の三女として生まれ、幼少期を八戸で過ごしました。

秀子は地元の八戸高等女学校を卒業したのち、1924(大正13)年に起きた火災をきっかけとして上京することになります。

父・松林慶蔵の殉職と東京への上京

秀子の父・松林慶蔵は、もともと鶏卵を扱う商売を営んでいました。

岩手県の久慈まで鶏卵の買い付けに出かけることもありましたが、次第に商売から離れ、消防団の活動に熱心に取り組むようになります。

秀子は後年、父親にとって消防団の仕事は道楽だったと振り返っています。

しかし1924(大正13)年5月16日、隣町で発生した火災に出動した慶蔵は、消火活動中に殉職しました。

この火災では松林家の自宅だけでなく、親戚の家も焼失しています。

父親を失い、住まいも焼けたことが、秀子の人生を大きく変えるきっかけになりました。

秀子は上京し、新しい生活を始めます。

そして1925(大正14)年、文藝春秋の社員募集広告を見つけて応募したことが、川端康成との出会いにつながります。

川端康成と妻・秀子の馴れ初め・結婚

川端康成と秀子が出会ったのは、1925(大正14)年5月ごろのことです。

当時、川端康成は新感覚派の作家として活動していましたが、まだ後年のような文豪としての地位を確立していたわけではありません。

1925年に菅忠雄の家で川端康成と出会う

1925(大正14)年5月ごろ、秀子は文藝春秋の社員募集広告を見て応募しました。

応募先で住所を尋ねられた秀子が、住所はないと答えたところ、菅忠雄の家から通わせてもらうよう勧められます。

こうして秀子は、菅忠雄の家に身を寄せることになりました。

菅は当初、東京の原宿に住んでいましたが、その後、市ヶ谷左内町へ転居します。

秀子が川端康成と初めて会ったのは、この市ヶ谷左内町の家でした。

『川端康成とともに』によると、初対面の川端は、鼠色で真ん中がへこんだ妙な帽子をかぶっていました。

秀子は川端について、どこか陰気で寂しそうな印象を受けた一方、眼だけは生き生きしていたと振り返っています。

1925年の夏に川端康成と海へ出かける

川端康成と知り合った1925(大正14)年の夏、秀子は川端に一度だけ海へ連れて行ってもらったと回想しています。

このころ川端は、静岡県の伊豆・湯ヶ島温泉に滞在することが多く、東京を離れている時期もありました。

しかし、菅忠雄から誘われることもあって、次第に東京へ戻る機会が増えていきます。

1926年4月ごろから市ヶ谷左内町で同棲生活

1926(大正15)年4月ごろ、川端康成は市ヶ谷左内町へ移り、秀子と一緒に暮らし始めました。

この共同生活は、菅忠雄も承知していたといいます。

当時、川端はまだ27歳になる前の若手作家で、秀子は19歳でした。

2人はこのころから夫婦同然の生活を送っていましたが、法律上の婚姻届を提出したのは1931(昭和6)年になってからです。

秀子自身は後年、いつから実際の結婚生活を始めたかについて、はっきりとした区切りはなかったと振り返っています。

菅忠雄が2人の結婚に反対した理由

川端康成と秀子の出会いを取り持つ形になった菅忠雄でしたが、2人の結婚には反対していました。

秀子は『川端康成とともに』のなかで、菅自身が結婚するとき、父親から反対されて苦労した経験が関係していたのではないかと推測しています。

菅がなぜ反対したのかについては、秀子自身も断定していません。

菊池寛から新婚旅行の費用200円をもらう

川端康成は、秀子との結婚について作家の菊池寛に報告。

菊池寛は2人を祝福し、新婚旅行の費用として200円を渡しています。

当初、川端と秀子は日光へ新婚旅行に出かけるつもりでした。

しかし、川端は買い物が好きで、上等の着物・草履・傘を購入してしまいます。

その結果、菊池寛から受け取った200円はほとんど残らず、新婚旅行の計画は立ち消え。

この出来事は、川端康成の金銭感覚を示すとともに、後に秀子が苦労することになる家計の問題を象徴するエピソードであると言えるでしょう。

1931年12月2日に正式に入籍

なお、秀子が川端康成の結婚が法律的に成立した日付は、1931(昭和6)年12月2日です。

ただ、当の秀子に言わせると実質的な結婚生活は、いつから始めたのか分からないとのことです。

川端康成と妻・秀子の結婚生活

川端康成と秀子の結婚生活は、経済的に余裕のあるものではありませんでした。

若いころの川端家には文士仲間が頻繁に訪れ、秀子はその応対や食事の準備に追われていました。

さらに、川端自身の買い物や交際にかかる費用も多く、家計のやりくりは秀子にとって大きな負担となっていました。

片岡鉄兵・横光利一らが川端家を訪問

1926(大正15)年ごろ、川端康成が市ヶ谷左内町で暮らし始めると、作家仲間が次々と訪問。

『川端康成とともに』によると、川端家を訪問していた人物には、片岡鉄兵、池谷信三郎、横光利一らがいました。

彼らは川端と文学について話し合うだけでなく、原稿を持ち込んで、その場で執筆を始めることもあったようです。

そのため、秀子は突然増えた来客の食事を用意しなければならなくなります。

川端家は、若い文学者たちが集まる交流の場にもなっていたのです。

川端康成の浪費と苦しかった家計

川端秀子は結婚生活を始めたころの川端家の家計について次のように振り返っています。

財政的には滅茶苦茶でした

川端秀子 『川端康成とともに』 新潮社 13ページ

実際、川端家には頻繁に客が訪れていましたが、川端が秀子に渡す生活費は、月に8円や10円です。

それでは来客の食事代を十分に賄えず、秀子は自分の貯金を取り崩していました。

ときには洋食屋から出前を取り、訪ねてきた文学者たちに振る舞っていたといいます。

また、川端は池谷信三郎の恋人が音楽学校へ入学する際、50円を援助したこともありました。

菊池寛から受け取った新婚旅行の費用200円を買い物に使ってしまった話と合わせると、川端が金銭の管理よりも、自分の関心や人との付き合いを優先することがあった様子がうかがえます。

その一方で、秀子は限られた生活費のなかから、家計と来客のもてなしを支えていました。

秀子が支えた文学者たちとの交流

川端秀子は、夫の金銭感覚に苦労しながらも、文学者同士の交流を大切にしていました。

『川端康成全集 補巻二』には、秀子自身が寄せた文章が収録されています。

文士の世界も近頃は変ってきているのかも知れませんが、川端は文士の交友の美しさを信じ、文壇の活力を信じつづけた人でした。私たち遺された者もその文壇、文壇を支える出版社の恩義をいまだに受けております。

川端康成(著) 川端康成記念会(編著) 川端康成全集補巻二 新潮社 4ページ

川端家を訪れる文学者たちのために食事を用意し、家計をやりくりしていた秀子の苦労は、単なる家事の負担だけではありませんでした。

川端康成が大切にしていた文学者仲間との人間関係を、家庭生活の面から支える役割も担っていたと考えられます。

川端秀子と宇野千代・馬込文士村の交流

川端康成と秀子は、1928(昭和3)年から1929(昭和4)年ごろ、東京の馬込町で暮らしていました。

当時の馬込周辺には、尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎ら多くの文学者が住んでおり、後に「馬込文士村」と呼ばれるようになります。

川端夫妻も、この文学者たちの交流のなかで生活していました。

→ 尾崎士郎とは?宇野千代の2番目の夫
→ 宇野千代とは?
→ 宇野千代と萩原朔太郎の関係

馬込町小宿三八九番地に暮らした川端夫妻

『川端康成とともに』によると、1928(昭和3)~1929(昭和4)年ごろ、川端康成・秀子夫妻の住所は馬込町小宿三八九番地です。

この家から一町か二町ほど先には、小説家の宇野千代と、その夫・尾崎士郎も住んでいました。

川端康成と尾崎士郎はともに文士仲間であり、川端夫妻と宇野千代も近所付き合いをする関係にありました。

宇野千代が川端家で尾崎士郎との関係を相談

『川端康成とともに』には、宇野千代が川端家を訪問していたころの様子も記されています。

宇野千代は川端家にやってくると、ビールを飲みながら、夫の尾崎士郎と別れるかどうかについて話していたといいます。

当時の宇野千代と尾崎士郎の夫婦関係には問題が生じており、宇野千代は川端夫妻のもとでも、その悩みを話題にしていたことになります。

この証言から、宇野千代と川端夫妻が単に近所に住む文学者同士というだけでなく、私生活についても話す関係だったことが分かります。

→ 宇野千代はなぜ4回の離婚をしたのか?

川端康成と宇野千代の仲をめぐる噂

川端秀子は『川端康成とともに』のなかで、宇野千代が川端康成にもついて回っており、周囲から2人の仲を怪しむ声があったと振り返っています。

しかし、これはあくまでも秀子が伝える周囲の噂であり、川端康成と宇野千代に男女関係があったことを証明するものではありません。

実際、宇野千代自身は自伝『生きて行く私』のなかで、川端康成について、まったく男臭く感じなかったと述べています。

また、川端と同じ布団で寝た際にも、川端が2人を「中性同士の男女」と表現したという回想を残しています。

つまり、周囲からは恋愛関係を疑われることがあった一方、宇野千代自身は川端を異性として強く意識していなかったと説明しているのです。

このように、秀子と宇野千代の証言を比較すると、当時の文学者たちの親密な交流と、周囲から見た男女関係の印象が必ずしも一致していなかったことが分かります。

→ 宇野千代と川端康成の関係

宇野千代・萩原稲子らとの断髪事件

馬込文士村で暮らしていたころ、川端秀子、宇野千代、萩原朔太郎の妻・萩原稲子らが髪を短く切ったという逸話も伝えられています。

当時、女性が髪を短く切る断髪は、従来の女性像とは異なる新しい生活様式や流行とも結び付いていました。

ただし、この出来事については、『川端康成とともに』および『川端康成全集 補巻二』に記述が確認できません。

したがって、川端秀子自身が断髪事件をどのように受け止めていたのかは、これらの資料からは分かりません。

→ 萩原朔太郎の妻・萩原稲子とは?
→ 宇野千代の人間関係とは?

川端秀子 関連記事

川端秀子と関係の深い文学者や、川端康成をモデルとする朝ドラ「ブラッサム」の登場人物については、以下の記事でも紹介しています。

川岸静代とは

朝ドラ「ブラッサム」の10週では川端秀子をモデルとした、川岸静代(sara)が、小説家・川岸康成の妻として登場します。

→ ブラッサム 川岸静代(sara)とは?(準備中)

宇野千代と川端康成の関係

宇野千代と川端康成は、馬込文士村で交流した文学者同士です。

宇野千代の自伝『生きて行く私』に記された川端康成とのエピソードや、2人の関係について詳しく解説しています。

→ 宇野千代と川端康成の関係

ブラッサム モデル一覧

朝ドラ「ブラッサム」には、川端康成をモデルとする川岸康成(前原滉)が登場します。

ドラマの登場人物と実在した文学者たちの関係については、モデル一覧記事でまとめています。

→ ブラッサム モデル一覧

ブラッサム モデル 宇野千代 関連記事

朝ドラ「ブラッサム」の主人公・葉野珠のモデルは、小説家の宇野千代です。

川端康成夫妻と交流のあった宇野千代については、人物紹介、年表、人間関係の記事でも詳しく解説しています。

宇野千代とは

宇野千代の生い立ちから小説家としての活動、4度の結婚や晩年までを紹介しています。

→ 宇野千代とは?

宇野千代 年表

宇野千代の生涯を年代順に整理し、結婚・離婚、文学活動、交流した人物などを紹介しています。

→ 宇野千代 年表

宇野千代の人間関係

川端康成をはじめ、尾崎士郎、萩原朔太郎、東郷青児など、宇野千代と関わりのあった文学者や芸術家を紹介しています。

→ 宇野千代の人間関係とは?

ブラッサム 作品紹介

朝ドラ「ブラッサム」とは?

作品概要やキャスト、主人公・葉野珠のモデルとなった宇野千代について紹介します。

→ 朝ドラ「ブラッサム」とは?

ブラッサム 川岸静代が登場する週

川端秀子がモデルと考えられる「ブラッサム」の川岸静代は10週で登場します。

→ ブラッサム 10週 あらすじ

ブラッサム あらすじ

朝ドラ「ブラッサム」の最新週から1週までのあらすじを随時更新します。

→ ブラッサム あらすじ 最新週から1週まで

ブラッサム ネタバレ最終回まで

朝ドラ「ブラッサム」の最終回までの展開や主要人物の結末について紹介します。

→ ブラッサム 最終回までの展開や主要人物の結末

参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考としています。

kawabata-hideko

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次