朝ドラ「ブラッサム」の主人公・葉野珠のモデルとなった宇野千代(1897~1996年)は、小説家になる前、「小学校の先生」をしている時期がありました。
1914(大正3)年3月に岩国高等女学校(現在の山口県立岩国高等学校)を卒業すると、尋常小学校の代用教員となり、17歳で教師生活を始めます。
しかし翌1915(大正4)年、同僚教師との恋愛をきっかけに小学校を退職しました。
この記事では、宇野千代が先生になった経緯や勤務した小学校、教師としての姿、同僚教師との恋愛から退職までを紹介します。
→ 宇野千代とは?
→ 宇野千代は何をした人?
→ 宇野千代の年表
→ 宇野千代の女学校はどこ?
→ ブラッサム 主人公・葉野珠 モデルは宇野千代
結論|宇野千代は17歳で尋常小学校の先生になった
小説家・宇野千代(1897~1996年)の「小学校の先生時代」ついて簡単にまとめると、次のとおりです。
・1914(大正3)年に岩国高等女学校(現在の山口県立岩国高等学校)を卒業
・17歳で尋常小学校の代用教員になる
・月給は8円
・派手な身なりをしていたが、児童への指導は厳しかった
・同僚教師との恋愛をきっかけに1915(大正4)年に退職
宇野千代が先生をしていた期間は1年あまりでした。
しかし同僚教師との恋愛と退職は、その後、故郷・岩国を離れて新しい人生へ進んでいく大きな転機となります。
朝ドラ「ブラッサム」において、主人公・葉野珠が代用教員として働いたのち解雇されることがNHKからすでに発表されています。
このことから、宇野千代の先生時代はドラマ序盤の重要なモデルになると考えられます。
→ 宇野千代とは?
→ 宇野千代は何をした人?
→ 宇野千代の年表
→ 宇野千代の女学校はどこ?
→ ブラッサム 主人公・葉野珠 モデルは宇野千代
宇野千代は岩国高等女学校を卒業して先生になった
1914(大正3)年に岩国高等女学校を卒業
宇野千代は1910(明治43)年4月、玖珂郡立岩国高等女学校へ入学しました。
現在の山口県立岩国高等学校の前身の1つにあたる学校です。
女学校時代の宇野千代は成績優秀であった一方、「青鞜」や「第三帝国」などを読み、文学仲間を作って「女子文壇」へ投稿するなど、すでに文学への強い関心を示していました。
1914(大正3)年3月、17歳で岩国高等女学校を卒業。
その後、宇野千代は、継母方の祖母の口利きで、尋常小学校の先生として働き始めます。
→ 宇野千代の女学校はどこ?
→ 宇野千代の継母・宇野リュウとは?
17歳で尋常小学校の代用教員に
宇野千代がなったのは、正式な「訓導」ではなく「代用教員」でした。
宇野千代の自伝「生きて行く私」において、当時の小学校の先生には
・訓導
・準訓導
・代用教員
という区分があったと説明されています。
訓導は師範学校(現在の教員養成課程を有する国立の教育大学に相当する学校)を卒業するなどして教員資格を得た教師のことです。
一方、宇野千代は師範学校卒ではなく、岩国高等女学校の卒業生です。
そのため宇野千代は正式な訓導ではなく、「代用教員」という立場で小学校の先生を務めることになりました。
宇野千代が先生をしていた小学校はどこ?
年譜では「川上村小学校」
宇野千代が勤務した小学校については、資料によって記述が異なります。
「宇野千代全集 第12巻」に収録されている年譜では、1914(大正3)年について、
川上村小学校の代用教員となり、
宇野千代 宇野千代全集 第12巻 中央公論社 270ページ
と記されています。
年譜によれば、宇野千代は実家を離れ、学校近くにある百姓家の離れを借りて自活を始めました。
当時の月給は8円だったと伝えています。
「生きて行く私」では「川下村の小学校」
ところが宇野千代自身は、自伝「生きて行く私」で、
女学校を卒業すると間もなく、私は母の実家のある川下村で、小学校の教員になった。
宇野千代 生きて行く私 (角川文庫) No. 414
と回想しています。
岩国市観光振興課のサイトでも、宇野千代が勤務した学校を「川下尋常小学校」としています。
つまり資料によって、
・宇野千代全集 第12巻の年譜 → 川上村小学校
・生きて行く私 → 川下村の小学校
・岩国市観光振興課 → 川下尋常小学校
と記述が分かれています。
そのため、宇野千代が最初に勤務した尋常小学校の名称については、資料によって違いがあることに留意する必要があります。
宇野千代はどんな先生だった?
派手な身なりをした若い女性教師
17歳で先生になった宇野千代は、当時としてはかなり目立つ女性教師だったようです。
「宇野千代全集 第12巻」の年譜では、
千代は身なりは派手な女教師であったが、教育態度は非常に厳しかった。
宇野千代 宇野千代全集 第12巻 中央公論社 271ページ
と記されています。
後にファッション雑誌「スタイル」を創刊し、きものデザイナーとしても活躍する宇野千代ですが、10代のころから身なりには強い関心を持っていたことがうかがえます。
児童への指導は非常に厳しかった
身なりは派手でも、教師として児童に接する態度は厳しかったようです。
宇野千代は後に自由奔放な生き方や数々の恋愛で知られるようになりますが、それと教師としての教育態度は別だったのでしょう。
少なくとも「宇野千代全集 第12巻」の年譜では、「教育態度は非常に厳しかった」と明記されています。
ただし、私生活まで生真面目な先生だったわけではありません。
そのことをよく示すエピソードが、同じ小学校に勤務する男性教師との恋愛でした。
「生きて行く私」に登場する同僚教師・佐伯正夫
師範学校を卒業した訓導
宇野千代の自伝「生きて行く私」には、先生時代に恋愛関係となった男性が「佐伯正夫」という名前で登場します。
「生きて行く私」によれば、佐伯は師範学校を卒業した訓導でした。
高等女学校を卒業して尋常小学校の代用教員となった宇野千代とは異なり、佐伯正夫は正規の教員養成を受けた教師だったことになります。
宇野千代は、赴任してきた佐伯の優男風の姿を見て一目惚れしたと回想しています。
「佐伯正夫」は仮名の可能性も
ただし、「佐伯正夫」という名前が史実上の実名だったのかは確認できません。
「生きて行く私」では、一部の実在人物が仮名で登場します。
たとえば、
・藤村亮一 → 「雄一」
・藤村忠 → 「悟」
というように、実際とは異なる名前が使われています。
また「宇野千代全集 第12巻」に収録されている年譜でも、1915(大正4)年の退職理由について、
学校の同僚との恋愛により、
宇野千代 宇野千代全集 第12巻 中央公論社 271ページ
と記されているだけで、恋愛相手の個人名は記載されていません。
したがって本記事では、自伝「生きて行く私」に登場する人物を「佐伯正夫」と表記しますが、実名ではなく仮名である可能性にも留意する必要があります。
2年生の担任になったことから親密に
佐伯が甲組、宇野千代が乙組の担任
「生きて行く私」によると、宇野千代と佐伯正夫はともに尋常小学校2年生の学級担任になりました。
佐伯が2年甲組、宇野千代が2年乙組を担当します。
同じ学年の学級担任となったことで、2人は仕事上でも接する機会が増えていったようです。
宇野千代が教えていた尋常小学校では「甲組」「乙組」というクラス分けが行われていました。
宇野千代の回想によれば、この甲乙というクラス分けは、前者は「優等生組」で後者を「劣等生組」として、生徒たちの成績などの優劣の違いを露骨に示す振り分けだったようです。
「甲乙と呼ぶのをやめよう」と提案
佐伯は、このクラスの呼び方について「甲乙と分けて呼ぶことをやめよう」という趣旨の提案をしました。
成績によって子どもたちを「甲」「乙」と露骨に区別することに疑問を持っていたのかもしれません。
宇野千代は、佐伯の外見に一目惚れしただけでなく、一緒に仕事をするなかで、その考え方にも興味を持つようになっていきました。
こうして2人の関係は、同じ小学校に勤務する教師同士という関係から、次第に恋愛へと発展していきます。
宇野千代の大胆な「押しかけ女房」ぶり
昆布の煮物を作って佐伯の下宿へ
教師として児童への教育や指導については熱心で厳格だった宇野千代ですが、自身の恋愛となると行動はかなり大胆でした。
「生きて行く私」によれば、宇野千代は昆布の煮物などを作り、佐伯の下宿へ持って行ったこともありました。
現代風に言えば、まだ結婚していない男性の身の回りの世話を焼く「押しかけ女房」のような行動です。
宇野千代は後年、数多くの恋愛を経験することになりますが、18歳ごろにはすでに、好きになった男性へ自分から積極的に近づいていく一面が表れていました。
授業中に手紙を書いて児童に届けさせる
さらに驚かされることが、佐伯との手紙のやり取りです。
宇野千代は授業中に佐伯へ手紙を書き、その手紙を自分が受け持っていた児童に持たせて届けさせることもあったと「生きて行く私」で回想しています。
おかずを持って行くことを知らせる手紙を、自分が指導する児童に届けさせたと自分で語っていることから、教師としての厳格さとはかなり対照的です。
つまり宇野千代は、児童への教育態度は厳しい一方、恋愛についてはすでに大胆で行動力のある若い女性だったことが分かります。
後に何度も恋愛や結婚を経験し、それらを小説の題材にしていく宇野千代の人物像は、短い教師生活のころにもすでに現れていたと言えるでしょう。
同僚教師との恋愛で小学校を退職
1915(大正4)年に小学校を退職
宇野千代と同僚教師との恋愛は、やがて教師生活そのものを終わらせることになります。
「宇野千代全集 第12巻」の年譜には、1915(大正4)年、18歳の宇野千代について、
秋、学校の同僚との恋愛により、川上村小学校を退職した。
宇野千代 宇野千代全集 第12巻 中央公論社 271ページ
と記されています。
つまり宇野千代が先生を辞めたことと、同僚教師との恋愛には直接的な関係があったことになります。
わずか1年あまりで、宇野千代の教師生活は終わりました。
退職後は朝鮮の京城へ
小学校を退職した宇野千代は、その後、岩国を離れます。
「宇野千代全集 第12巻」の年譜によると、女学校時代に作文を教わった教師・大池房代を頼り、単身で京城(現在の韓国・ソウル)に渡航。
尋常小学校の先生を辞めたことは、宇野千代にとって大きな挫折だった一方、故郷を離れて各地を渡り歩く人生の始まりにもなりました。
後に東京へ出て小説家として成功する宇野千代の人生を考えると、代用教員時代とその退職は重要な転換点だったと言えるでしょう。
「ブラッサム」で葉野珠が働く尋常小学校のモデルになる?
NHKは朝ドラ「ブラッサム」の制作発表で、主人公・葉野珠が女学校を卒業したのち、代用教員として働き始めることを明らかにしています。
さらに珠はその後、代用教員を解雇され、故郷・岩国を離れることになります。
これはモデルとなった宇野千代が、
岩国高等女学校を卒業 → 尋常小学校の代用教員になる → 同僚教師と恋愛 → 小学校を退職 → 岩国を離れる
という経歴とよく重なっています。
今後、「ブラッサム」で珠が勤務する、劇中での尋常小学校の名称が明らかになれば、宇野千代が勤務した学校との違いや、スタジオ外でのロケ地を使って撮影しているかどうかも含めて紹介する予定です。
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島村辰彦のモデルは宇野千代の同僚教師?
「ブラッサム」には、珠が勤務する小学校の同僚教師として島村辰彦(工藤阿須加)が登場します。
島村辰彦は師範学校を卒業し、教育への情熱を持って故郷へ戻ってきた教師として設定されています。
この設定は、「生きて行く私」に登場する佐伯正夫が師範学校卒業の訓導だったというエピソードと重なる部分があります。
さらに史実の宇野千代が同僚教師との恋愛を理由に小学校を退職していることから、島村辰彦と珠の関係にも、その出来事が取り入れられる可能性があります。
ただし、史実上の恋愛相手の実名を「佐伯正夫」と確認できるわけではありません。
そのため、島村辰彦は「生きて行く私」で佐伯正夫と記される同僚教師のエピソードをモデルとしている可能性があると考えるのが適切でしょう。
→ ブラッサム 島村辰彦(工藤阿須加)とは?
→ ブラッサム 辰彦の結婚相手とは?
よくある質問(FAQ)
Q. 宇野千代は学校の先生をしていたのですか?
A. はい。
宇野千代は1914(大正3)年に岩国高等女学校を卒業した後、17歳で尋常小学校の代用教員になりました。
先生をしていた期間は1年あまりで、1915(大正4)年に退職しています。
Q. 宇野千代はどこの小学校で先生をしていましたか?
A. 資料によって記述が異なります。
「宇野千代全集 第12巻」の年譜では「川上村小学校」、「生きて行く私」では「川下村」の小学校と記されています。
そのため勤務先の学校名については注意が必要です。
Q. 代用教員とは何ですか?
A. 正規の教員資格を持つ訓導とは異なり、教員不足などを補うために採用された教師です。
宇野千代は師範学校ではなく岩国高等女学校を卒業した後、代用教員として小学校に勤務しました。
Q. 宇野千代はどんな先生でしたか?
A. 「宇野千代全集 第12巻」の年譜では、身なりは派手だったものの「教育態度は非常に厳しかった」とされています。
一方、恋愛ではかなり積極的で、「生きて行く私」には同僚教師の下宿へ料理を持って行ったり、児童に手紙を届けさせたりしたエピソードも記されています。
Q. 宇野千代の先生時代の給料はいくらでしたか?
A. 月給8円でした。
宇野千代は実家を離れ、勤務先の小学校近くにあった百姓家の離れを借りて自活していました。
Q. 宇野千代と恋愛関係になった同僚教師は誰ですか?
A. 宇野千代は自伝「生きて行く私」で、その教師を「佐伯正夫」という名前で登場させています。
ただし「生きて行く私」では一部の実在人物が仮名で登場するため、「佐伯正夫」が実名だったのかは確認できません。
「宇野千代全集 第12巻」の年譜でも「学校の同僚」と記されているだけで、相手の名前は明記されていません。
Q. 宇野千代はなぜ先生を辞めたのですか?
A. 同僚教師との恋愛がきっかけです。
「宇野千代全集 第12巻」の年譜では、1915(大正4)年秋に「学校の同僚との恋愛により、川上村小学校を退職した」と記されています。
Q. 宇野千代は先生を辞めた後どうなりましたか?
A. 小学校を退職した後、女学校時代の教師・大池房代を頼って朝鮮の京城へ渡りました。
その後、宇野千代は各地を移り住み、やがて東京へ出て小説家への道を歩むことになります。
Q. 「ブラッサム」で葉野珠が働く小学校のモデルはどこですか?
A. 現時点では、NHKから小学校の正式名称やモデルは発表されていません。
ただし珠が女学校卒業後に代用教員となり、その後解雇されるという設定は宇野千代の経歴と重なります。
そのため、宇野千代が勤務した尋常小学校が史実上のモデルになる可能性が高いと考えられます。
Q. 島村辰彦のモデルは佐伯正夫ですか?
A. 島村辰彦(工藤阿須加)は、宇野千代の先生時代の恋愛エピソードをもとに作られた人物である可能性があります。
「生きて行く私」に登場する佐伯正夫も師範学校卒業の訓導として描かれており、宇野千代と同じ小学校で親密になりました。
ただし「佐伯正夫」が史実上の実名だったのかは確認できないため、「佐伯正夫という実在人物が島村辰彦のモデル」とまでは断定できません。
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参考文献
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